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どうも、こんにちは。
今年(2020年、令和2年)の3月3日、ひな祭りの日。
京都の妖怪絵師・伝道師である葛城トオル氏主催の、京都・東山の霊場魔所をめぐるツアーのレポート記事、第5回目です。
そして前編(シリーズ前回)に引き続いて、あの豊臣秀吉が京都・東山に築いた「秀吉ワールド」を、葛城氏の案内で巡りました。
今回はその続きで。
前編では、以下の話をしました。
・それら「秀吉ワールド」が、豊臣秀吉が京都を霊的・呪術的にも支配する為に築かれたこと。
・秀吉の死後もなお、パワースポットに見立てた京都のパワーを得続けようとする霊脈(レイライン)が築かれたこと。
そして今回、後編では以下の話をします。
・その為に、秀吉は安倍晴明と陰陽師、その痕跡を排除したこと。
・秀吉が安倍晴明、陰陽師に代わる存在として起用したのが、あの茶人・千利休だったこと。
・さらに秀吉の死後、秀吉が築いたレイラインが徳川家康によって断ち切られてしまったこと。
これはどういうことなのか?
さらに葛城氏のお話を聴きます。
「霊的・呪術的な意味でも京都を完全支配したい」という願望を実現させたい秀吉にとって、最も邪魔な存在、それが・・・陰陽師と、平安時代の大陰陽師・安倍晴明だったのです。
安倍晴明の説話や伝承の数々。
安倍晴明が遺し、伝えたとされる陰陽道や、日常生活までに渡るその影響。
さらに京都の各地には安倍晴明やその親類縁者などを祀った社が幾つもあったそうです。
京都の人々のスピリチュアルな世界に絶大な影響力を持つ陰陽道、陰陽師と。
安倍晴明という歴史的・伝説的な巨人の存在。
とてつもなく大きく、邪魔なこれらの存在を取り除く為に秀吉は、まずは陰陽師や安倍晴明を排斥・弾圧し出します。
例えば、安倍晴明が鴨川・五条橋の中州にあった、安倍晴明が葬られていたという寺(法城寺)を解散させたりしたそうです。元々は中州にあったのが、川の東側に移り、それを弾圧で潰したという・・・。
そこにあった安倍晴明の座像も、念持仏であった観音像などもこの時散逸し、現在では寺町付近の寺(浄土宗・長仙院か?)や、三条京阪あたりの寺院にひっそりとあるそうです。
ここでも思い出したのが、シリーズ第33回で、五条河原(現在の鴨川・松原橋付近)にも安倍晴明の伝説が、しかも一度殺されて師匠の力で復活したという伝説が遺されているということですが、なるほどあの五条河原も元々は晴明にゆかりの深い地だったのだな、と。
話を戻しますと、法城寺と共に、そこにあった安倍晴明の塚も潰され。
陰陽師なども徹底弾圧して、廃止に追い込んだそうです。
それまで陰陽道や安倍晴明を信仰してきたのに、秀吉の弾圧によって拠り所を失った人々は、その代わりに信仰するようになったのが、稲荷(いなり)だそうです。
「安倍晴明の母親が葛葉姫(くずのはひめ)という名の狐女だった」という有名な伝説もあり、それには狐を神の使いとする稲荷は都合がよかったからというのもあります。
その為、京都には「祭神は実は安倍晴明」という稲荷神社や、安倍晴明とゆかりの神社なども意外と多いそうです。また、そういう稲荷社も巡りたいものです。
晴明及び陰陽師という存在を排除した後、それらに代わる存在として秀吉が起用したのが・・・何と、あの茶人・千利休(せんのりきゅう)だという話です。
最初この話を聴いた時に、「ええっ、マジですか!?」とか思いましたが。
葛城氏のお話をさらに聴きますと、茶の湯には陰陽道の「陰陽五行」の「水・土・火・金・木」が組み込まれていると。
まずは「水」。
炉は「土」と「火」。
茶釜は「金」。
茶筅(ちゃせん)は「木」。
本来の陰陽師は、平安貴族に対して、今で言うセラピーやカウンセリングのようなことを行っていました。
それと同じ様に、茶人・利休も大名に対して悩み相談のようなことも引き受けて、もし寝返りそうな兆しがあれば、秀吉に報告したりもした。
ところでここで、またもや思い出したことがあります。
シリーズ第63回『晴明井戸と千利休屋敷跡』で、「千利休は、現在の京都・晴明神社の地、かつて安倍晴明の屋敷跡に自分の屋敷を建て、晴明が念力によって湧かせたという「晴明井戸」の水を茶湯に用いた」という話をしましたが。
これも偶然などではなかったわけですね。
「自分たちは安倍晴明、陰陽師に代わって、京都の霊的・呪術的に支配する存在である」という意思表示でもあったのですね。
しかしながら京都を、天下を霊的・呪術的に支配しようとした秀吉・利休のコンビも、最後には決別することになります。利休が「わびさび(侘び・寂び)」を大事にしたのに対し、秀吉は金ピカの茶室を作ったりなど、美意識も価値観も合わなくなった二人の間の溝は次第に深まり、最後には利休は切腹にまで追い込まれたのは有名な話です。
秀吉の死後、彼が望んだ「死後も京都の支配者として君臨し続ける」という壮大な夢にも終わりが来ます。
それは、その後に天下を取った徳川家康の手によって潰されてしまいます。
ここでシリーズ前回で紹介した、秀吉が築いた「レイライン」の地図をもう一度よく観てみましょう。
当時の京都で最大規模だった霊場(宗教施設)だった本願寺と、秀吉が築き上げた壮大な霊場である方広寺、そして秀吉の墓所と。それらがほぼまっすぐな「レイライン」で結ばれています。
「死後も京都のパワーを享受し続けたい」
「表の、目に見える世界だけでなく、裏の、目に見えない霊的・呪術的な世界までもを含めた完全なる支配を、死後も永遠に続けていたい」
そんな秀吉の強烈な意思が感じられます。
しかしこの地図を、特に方広寺と西本願寺(当時の本願寺)の間をさらによく見ると・・・。
西本願寺と方広寺の間に、東本願寺と、庭園・渉生園(しょうせいえん)があります。
秀吉の死後、徳川家康の天下を決定づけたとされる関ヶ原の戦いの後の、慶長7年(1602年)。家康から土地の寄進を受けて創建されたが、現在の東本願寺。
さらに徳川幕府3代将軍・家光から寄進を受けて創られたのが大庭園が「渉生園」。
この2つによって、秀吉が築いた「本願寺(西本願寺)→方広寺→豊国廟」という「レイライン」は断ち切られています。
「明らかに秀吉のレイラインを潰す目的で、徳川がやった」というのが葛城氏の説です。
さらに秀吉の死後、徳川が天下を握ると、秀吉の墓所「豊国廟」にも手が加えられます。
元々は石棺の中に寝た形で埋葬されていた秀吉の遺体を掘り返し、庶民と同じ丸い棺桶に、それも屈葬(くっそう)にして埋め戻した、というのです。
屈葬といえば、「死者が蘇って出てこないように」と手足を折り曲げた形で埋葬する方法。
死人に対しても随分と酷い、情け容赦ないことをするな、と思いましたが、これは「秀吉を神、高貴な存在とすること」と、秀吉が目指した「京都の霊的・呪術的支配」を完全否定する狙いがあったのは、明白でしょう。
誰もが知っている歴史上の有名人にも。
普段何気なく観ている寺社仏閣、名勝旧跡にも。
実は意外な、そして壮大な霊的・呪術的な意味を持っていることもある。
そういう見方もできれば、面白いものですね。
今回はここまで。
またシリーズ次回に。
*京都・晴明神社の
https://www.seimeijinja.jp/
*葛城トオル氏のTwitter
https://twitter.com/yokaido
*『京都妖怪探訪』まとめページ
https://kyotoyokai.jp/
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