京都の闇に魅せられて(新館)

葛城トオルと洛外魔界、源融ワールド @ 京都妖怪探訪(688)





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 どうも、こんにちは。
 今年(2020年、令和2年)の3月3日、ひな祭りの日。
 京都の妖怪絵師・伝道師である葛城トオル氏主催の、京都・東山の霊場魔所をめぐるツアーのレポート記事、第6回目です。
 今回は、『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルともなった源融の屋敷・河原院跡をはじめとする、平安京時代に魔界と考えられた、かつての洛外魔界を巡ります。


 シリーズ前回までの方広寺から、大和大路を北上し、五条通り(現在の国道一号線)へと出ますが、途中、旧渋谷(しぶたに)街道を横切ります。





 旧渋谷(しぶたに)街道とは、現在も国道一号線に平行するように続く細い道ですが、かつては東国から山科、京都・東山へと至る街道だったのです。
 おそらくはその名残りか、かつては街道沿いにあったであろう、こういう弁財天堂も、住宅街の中にひっそりと立っています。














 なお、渋谷(しぶたに)街道の名の由来とは、水はけが非常に悪くぬかるんだ道だったそうで、「汁谷(しるたに)」という言葉から来たそうです。
 後で少し調べたら、旧渋谷街道沿いには、花山トンネル(※シリーズ第16回及び第575回を参照)など、いくつもの心霊スポットもあるそうで。
 また調べてみたいな、という気もしてきました。
 でも、この記事を書いている今はコロナ危機が深刻化してしまって、外出も難しくなってしまって、一体いつ実現できるか・・・。


 五条通り、五条大橋を渡ります。









 現在の五条通り、国道一号線は、平安時代には五条大路と六条大路の間の「六条坊門小路(ろくじょうぼうもんこうじ)」という小さな道に過ぎなかったのです。
 当時の五条大路といえば、現在の松原通り(※こちらはシリーズ第33回参照)です。
 そして平安時代の中期頃には、平安京の五条大路より南側は荒廃して洛外(都の外)、つまり人外の世界、異界や魔界のように考えられていたそうです。


 高瀬川沿い、五条通りから木屋町通りを南へすすむと・・・。











 榎(えのき)の大木が見えてきます。
 ここは、シリーズ第15回でも紹介しました、「河原院(かわらいん)跡」です。








 ここにはかつて、『源氏物語』の光源氏のモデルとも言われる、源融(みなもとのとおる)という人物の邸宅だった「河原院(かわらいん)」があったそうです。
 その敷地は非常に広大で、東西は木屋町通りから柳馬場通りまで。南北は現五条通りから六条通り(もしくは正面通り)に及んだそうで。ただそれでは、京都の地理に詳しくない人にはわかりにくいので、総面積がおよそ6万3500平方メートル、東京ドームより広かった、と言えばわかりやすいでしょうか。当時としてもとてつもなく広い敷地だったということがおわかりただけると思います。
 しかも邸内の庭には、難波の海からくみ上げて運ばせた海水で陸奥塩竃の海を模した海を造り出し、そこの塩竃(しおがま)で塩焼きまで行っていたというのですから、とてつもなく贅沢なものです。
 源融という人物のとんでもない財力に驚かされますが、同時に「この財源は一体どうしたのだろうか?」だとか、「平安貴族だった源融がこれだけの財力を築くために、一体どれだけの凄まじい搾取とかが行われたのだろうか?」などと考えてしまい、少々めまいがしそうになりますが。
 しかしそんな大邸宅も、源融の死後は維持管理が難しくなったのか、荒廃していきます。そして、今で言う心霊スポットのように成り果てて、源融も死霊となってこの地にとどまり続けてきたようです。
 当時の洛外にあったこともあって、「魔界」と化してしまったのです。
 現在でも、心霊スポットだという噂もあるそうです。
 しかし、シリーズ第15回でも触れましたけど、死霊となってからの源融は、人妻を襲ったり、宇多上皇の御息所に手を出そうとしたりなど、何というか本当にろくなことをしてないようで・・・。
 「そんなろくでもない人物があの光源氏のモデルなのか?」とか思ったりしましたが(苦笑)。


 ところで、『源氏物語』に、「六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)」というキャラが登場します。
 誇り高く、知性や教養あふれる貴婦人ですが、光源氏への愛着や執着からおかしくなって、生き霊となって、光源氏の恋愛相手を次々と呪っていくという人物で有名です。
 さらに、『源氏物語』のスピンオフとも言える作品のひとつである、能『野宮』でも、死後も光源氏への執着を断ち切れずに亡霊となってこの世をさまよい続けています。
 さて、ここで。
 「平安時代中期以降の平安京では、当時の五条大路より南の地域は洛外、つまり異界や魔界ともいうべき場所だった」という話を思いだして下さい。
 この「六条御息所」というキャラには「六条」の地名が、端的に言えば「京都の魔界」を表す地名が名前に入っているのです。
 「そうです。六条御息所という人は、その名前からして、魔界と関わりのあるキャラだったのです」とは、葛城氏の談。
 ああ、なるほど、原作者・紫式部はそこまで考えたのか。いや、当時の人々なら誰でも知っていたのかな、とか妙に納得してしまいました。






 一旦、五条通りへと戻って。






 河原町五条の交差点を越えて。






 富小路通りと交わる交差点から、富小路通りを南へ。






 少し南へ下ったところに「本覚寺」という浄土宗の寺院があります。









 案内板には、ここには源融が実際に塩焼きをやった塩竃(しおがま)があり、今でも「本塩竃町」という地名にその名残りがあるという話です。


 富小路通りをさらに南へ下ると、‘世継(よつぎ)地蔵’こと上徳寺の山門が。






 この寺の山号は「塩竃山(えんそうざん)」といい、さらにご住職の名字も「塩竃」というそうで、ここにも源融の塩竃伝説の影響が、と驚かされたものですが。
 まあ、そりゃあ海岸線から遠く離れたこの地まで海水を運んで、海を再現して塩焼きまでやったというのは、当時から今に至るまでインパクトの強い話ではありますが・・・。


 ところでこの後、ここ‘世継地蔵’上徳寺と、市比賣神社を巡りながら、葛城氏からひな祭りのお話を聴くのですが。






 今回はここまで。
 この続きはシリーズ次回に。





*葛城トオル氏のTwitter
https://twitter.com/yokaido




*『京都妖怪探訪』まとめページ
https://kyotoyokai.jp/




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