前回とりあげました、「俵藤太の大ムカデ退治伝説」などで有名な瀬田の唐橋。
その唐橋の東詰付近に、伝説に登場した藤原秀郷(=俵藤太)と、彼にムカデ退治を依頼した瀬田の竜神とを祀った神社があります。
今回は、その神社「瀬田橋竜宮社・秀郷社」を訪れます。
まずは前回の続き。
瀬田唐橋の東詰付近にある石碑の場所から。
その石碑の近く、瀬田川堤防の下に、小さな社が建っています。
社の裏側に、この社の縁起が書かれている案内板がありました。
それによると、この小さな社に祀られているのは「橋守地蔵」と呼ばれ、その縁起は以下の通り。
昭和51年(1976年)1月26日、唐橋中央橋棚の工事の際、基礎の地下から、真鍮製の花筒と、御仏飯の器と共に発見されたそうです。
専門家の官邸によれば、室町末期頃に優れた石工の手による石仏らしいということです。
なお、「唐橋の下から何かが現れる」という預言をした霊能者が居たそうです。その霊能者によれば、「この石仏は霊験あらたかな薬師如来であり、唐橋の中央へ向け小堂を建て、祀ってあげるとよい」ということだったので、地元有志の方々が県当局にその旨を伝え、この社を建てたそうです。
そして「橋守地蔵」と名付けられ、祀られることになりました。
この橋守地蔵は、霊能者の預言通り、橋の中央部を向いて立っています。
この橋守地蔵だけでも、非常に面白いスポットなのですが、瀬田唐橋東詰付近には、他にも面白いスポットがありました。
橋守地蔵のところから、堤防下の道を少し南奥に進みますと、紅葉の美しいお寺が見えてきました。
俵藤太の追善供養のために建立されたという雲住寺です。
この雲住寺、現在は浄土宗の寺院だそうです。
それにしても、実に見事な紅葉です。
このお寺は観光寺院ではないようなので、中には立ち入りませんでした。
雲住寺の門前よりさらに奥には、俵藤太と瀬田橋の竜神を祀った「勢多橋竜宮秀郷社」という神社があります。
手水舎の竜。
境内へ。
境内の摂末社・金比羅社。
境内の松。
本殿です。
向かって右が、瀬田橋の竜神を祀った「竜王宮」。
向かって左が、俵藤太(=藤原秀郷)を祀った「秀郷社」です。
本殿にあった由緒書きによれば、以下のとおり。
古来より瀬田川には竜神が棲むと伝えられ、かつては瀬田橋そのものが社だったそうです。
橋の中央付近には特殊な杭が打ち込まれていて、それが竜神の御神体として崇められていたそうです。
大ムカデ退治伝説に登場した、大蛇や老翁の姿で俵藤太にムカデ退治を依頼する竜神というのは、この瀬田川の竜神だったのです。俵藤太伝説もまた、さらに古くからの伝説を反映しているのですね。
なお、竜神が姿を変えたのは、老翁ではなく女人だったという話もあるそうですが。
さらに由緒書きには、「ムカデ退治伝説とは、藤原秀郷が平将門を倒した」という歴史的事実に基づいて伝えられたものである」という意味の文も書かれていました。
三上山を七巻き半した巨大なムカデというのは、平将門とその軍勢を象徴しているというのです。
関東八州のうち七州半を支配下に治め、百官具足ムカデの足ほどの多くの軍勢を率いて、京の都まで攻め上ろうとした平将門。
その将門を、藤原秀郷が弓で左目を打ち抜いて倒しました。
この手柄を瀬田竜神の加護によるものだと考え、朝廷より竜神に供物が献じられたと、伝えられています。
さすがは、歴史と伝説に名高い瀬田唐橋と、その周辺です。
ちょっと探せば、こんなにも面白い遺産やスポットが、いくつも見つかるとは!
また、子供の頃から知っていた英雄物語や妖怪伝説の由来や真相まで知ることができたとは!
正直、最初は何の気なしに訪れた場所ですが、妖怪マニアとしても、実に楽しく有意義な旅となりました。
それでは、今回はここまで。
シリーズ次回では、瀬田橋東詰よりさらに東へ。
日本神話に名高い英雄・ヤマトタケルノミコト(日本武尊・倭武尊)を祭神として祀った「建部大社」を訪れます。
それでは、また次回。
*瀬田橋の竜宮・秀郷社へのアクセス・周辺地図はこちら。
*京都妖怪探訪まとめページ
http://moon.ap.teacup.com/komichi/html/kyoutoyokai.htm
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