京都の闇に魅せられて(新館)

京都妖怪探訪(70):愛宕道を行く(その1)




 “生の六道”こと、嵯峨・薬師寺をとりあげました、シリーズ前回の続きです。
 「東福寺の紅葉」を3回にわたってとりあげたので、ちょっと中断していましたが。

 さる8月24日には、嵯峨・薬師寺が年に1度一般公開される「地蔵盆」に参加し、さらにそのすぐ後に、同日に化野念仏寺で行われた「千灯供養祭」に参加してきました。
 今回は、化野念仏寺をとりあげる前に、薬師寺から念仏寺までの道で面白いものをいくつか見かけましたので、それも記事にしたいと思います。
 薬師寺の「地蔵盆」を終えた後、薬師寺のある清涼寺の西門から出ます。






 西門からのびる道を、そのまま道なりに進んでいきます。





 
 その途中、ちょっと変わったお堂を見つけました。
 





 このお堂は、「慈眼堂(じげんどう)」というお堂で、何と「小倉百人一首」の編纂などで有名な歌人・藤原定家(1162~1241年)が念持仏としていた「木像千手観音立像」が本尊として祀られているそうです。
 清涼寺から西へのびるこの道のことを「愛宕道」と、その道の両側の付近を「中院」というそうで、藤原定家がこの辺りに山荘をかまえていたそうです。
 そのためこの辺りには、藤原定家や小倉百人一首ゆかりの場所がいくつかあるようです。


 さらに進んで、とある民宿の前に、木の立て札が。





 立て札をよく読んでみますと、「小倉百人一首ゆかりの地・中院山荘跡」だそうです。
 法然上人の弟子で、藤原定家とも交流のあった僧・蓮生の山荘がありました。
 立て札には、

 嘉禎元年(1235)5月、定家は蓮生が山荘の障子に貼る色紙の執筆を依頼したのに快く応じ、色紙の一枚一枚に天智天皇以来の名歌人の作を一首ずつ書いた。「小倉百人一首」はこの時の選歌に、後世、後鳥羽、順徳両天皇の作品を加えるなどの補訂を施して完成したものといわれている。


とも書かれています。
 
 ところで、この民宿の脇(上の写真で見て、少し手前の辺り)に、何か小さな道があります。
 そこもちょっと覗いてみます。






 「小倉山荘旧址厭離庵」と書いた石碑が。
 ちょっと興味がわいたので、奥にも入っていきます。















 この「厭離庵(えんりあん)」は、あの藤原定家の山荘跡だそうです。
 この中にある「時雨亭」という建物で、定家は「小倉百人一首」を編纂したといわれています。
 もっとも、定家が「小倉百人一首」を選定・編纂したといわれる「時雨亭」なる建物及びその跡は、ここ他に二尊院と常寂光寺にもあるそうです。いずれが、本当の「百人一首選定・編纂の地」かは、はっきりしないそうですが。

 私が訪れた時には、中には入れませんでした。
 ただ、紅葉の時期だけは公開されることがあるそうです。
 ……って、ちょうど今頃じゃないですか。しまった、ここも忘れずにチェックしてけばよかった!


 とはいえ、今回の主目的はそこではないので、再び「愛宕道」へと引き返し、先を急ぎます。


 長くなったので、ここで一旦切ります。
また次回!



 厭離庵の地図はこちらを参照。




*京都妖怪探訪まとめページ
http://moon.ap.teacup.com/komichi/html/kyoutoyokai.htm





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