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どうも、こんにちは。
今回は、寅年ということもあって、寅(虎)に関する寺社に関するイベントが多いようです。
報恩寺の寺宝「鳴虎図」の特別公開もそのひとつです。
かつて豊臣秀吉がその「鳴虎図」を気に入って聚楽第に持ち帰りましたが、毎夜鳴き、吠え続けたため、「この虎は寺へ帰りたがっているのだろう」と、ついに寺へと返還された。
このような伝承も遺されている図でもあります。
また報恩寺といえば、シリーズ第391回でも紹介しました「つかずの鐘」の伝承も遺されています。
さらになんと・・・庭の池には人面魚まで居たというのです。
こんな面白そうな古刹の特別公開、是非とも行かなければ、と思い立ちました。
まずはいつもの通り、交通アクセスから。
最寄りの交通機関は京都市営バス「堀川上立売(ほりかわかみだちうり)」停留所。
そこから住宅街の中を探すと。
報恩寺の山門が見えてきます。
かつて小川が流れていた名残でしょうか、石橋が遺されています。
寺伝に寄ればこの古刹は、元々は室町時代に開創したという天台・浄土兼学の寺であり、文亀元年(1501年)に再考され、天正13年(1584年)豊臣秀吉によって現在の地に移されたという話です。
門から入ってすぐの場所にある墓地のそばには「つかずの鐘」があります。
シリーズ第391回の繰り返しになりますが、この「つかずの鐘」に遺されている伝承について。
江戸時代、寺の近くに織屋があって、十五才の丁稚(でっち)と十三才の織女(おへこ)が働いていました。この2人は何故か仲が悪く、いつもいがみ合って、喧嘩ばかりしていました。
ある時、夕方に報恩寺でつかれる鐘の回数を巡って喧嘩になり、丁稚は「八つ」と、織女は「九つ」と言い張り合いました。そして間違った方が、正しかった方の言うことを何でもきくと約束しました。
正解は、織女の言うとおり「九つ」。
しかし悪知恵の働く丁稚は、密かに寺男に「今日だけは八つにしてくれ」と頼み込み、事情を知らない寺男は気軽に引き受けました。
その日の夕方、鐘は八回鳴ったので、賭けは丁稚の勝ちとなりました。
織女の方は悔しさのあまり、寺の鐘楼で首を吊って死にます。
それ後、鐘を鳴らす度に「不吉なことが起こる」とか、「無念の表情をした織女の霊が現れる」とか言われるようになりました。
それ以来、この鐘は「除夜の鐘」としてのみ、つまり大晦日に除夜の法要後に108回つかれるだけとなって、「つかずの鐘」と呼ばれるようになったそうです。
この「つかずの鐘」の伝承だけでも、本シリーズでとりあげるには十分なのですが。
今回は、夜毎に鳴いて豊臣秀吉を悩ませたという伝承の虎図のオリジナルが観られるのですから、再訪せずにはいられませんでした。
寺の本堂・庫裡前の庭。
庫裡か本堂へ。
その脇を守るかのように立つ仁王像。
拝観料を払って中へ。
コロナ禍というご時世の為か、入場人数にも制限があり、予約者優先となっていました。
私もここを訪れる際はネット予約をし、予約受領のメールを係員さんに見せて入場しました。
報恩寺は普段、一般公開されていません。
報恩寺内側のこの庭も、この時期だからこそ観られる光景です。
特別公開のこの時期でも寺宝や仏像などの撮影はさすがに許可されませんでした。
その為、ここではこうして、配布された入場券の写真でしか鳴虎図をお目にかけられませんが。
現在では、寅年の正月三が日にしか公開されないという、オリジナルの「鳴虎図」ですが。
今回は「京都冬の旅2202」というイベントの一環として、2022年1月8日(土)~3月18日(金)の間に特別公開されているそうです。
この絵は、明の時代の画家・四明陶佾 (しめいとういつ) の筆によるもので、朝廷に伝わったものですが、文亀元年 (1501年) に、後柏原天皇から報恩寺に下賜されたと伝えられています。
一匹の大きな虎が松の木のそばを流れる川の水を飲んでいるという図ですが、松と虎を組み合わせて描くというのは、日本の絵では見られず、それがこの絵が日本ではなく、大陸で描かれたという証明にもなっているそうです。
また、松の木に止まっている鳥も、日本よりも主に朝鮮半島から大陸に観られるもので、それもこの絵が日本で描かれたものではないことを示しているそうです。
近くでよく見ますと、虎の毛の一本一本も丁寧に描かれているのがわかります。
「この虎が毎夜吠えて鳴いた」という伝承の背景には、こうした本物の如く細密に描かれていたことに加えて、その当時の京都の人たちの、外から来た権力者に対する反発とか反骨精神があったのではないか、と思えてきます。
京都にはこの他にも「豊臣秀吉が京都の街で見つけた○○を気に入って召し上げて持ち帰ったが、夜毎に怪現象が起こるので、秀吉は元の場所に戻した」という伝承が幾つか遺されています。
何しろ秀吉は、外からやってきて強大な権力で京都の支配者となり、物を召し上げたり(おそらく『ドラえもん』のジャイアンの如く無理矢理取り上げたり)、御土居という巨大な土塁で待ちを囲ったり、大量の寺社を移転させたり、聚楽第という自分のための壮大な豪邸を築いたり、巨大な大仏を創ったり、あげくは自分が神様になるための霊場やレイラインまで創ったり(※これに関して詳細はシリーズ第686回記事と第687回を参照)、まさに京都でやりたい放題してきたのですから。
こんなんですから、当時は多くの人の反感もかったのではないかと。
それが、こうした伝承が幾つも遺されている背景にあるのではないか、という気もしますね。
なお、報恩寺にはこういう内庭もあったのですが。
何と、庭に面した廊下の窓にこんな張り紙が。
人面魚!! それを観て、必死になって池の中を探してみましたが。
うーん、少し残念。
鷺などの猛禽類から鯉を守る為のやむをえない措置なのでしょうが、池に張ってある網の為に、鯉の顔がよく見えません。
でも、伝承の「鳴虎図」に「呪いの鐘」に、「人面魚」まで。
妖怪オタク、オカルトマニアの私にとっては、もうお腹いっぱいでしたよ(笑)。
今回はここまで。
また次回。
*『京都妖怪探訪』シリーズ
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