うーん
だいぶ前から、ずっと考えているけど・・・
人生があまり楽しくない。
といっても、そんなに楽しい人生の人などいるわけもないのだけど。
それに、楽しいというそれは人の尺度によって違うものだから、なにを以て図るのか?
そういうことを考えたときに、ムリじゃね?
みたいな感じになる。
たとえば、なにかでとんでもなく困っている人がいたとしたら、その人は、とりあえず生活を「フラット」の状態にしたいだろう。
つまりはゼロの状態まで持っていけたら、一息つけるわけだ。
そしてそれを幸せだと感じる。
では、ゼロ以上の人はどう考えるかと言えば
「もっとこういう人生だったらいいのに・・・」
という理想の話になる。
それは、自分の人生に足りない何かを埋めることで満足度を得るってことですな。
夕飯に1品増えるのもいいし、缶コーヒーを1本買うのもいいかもしれない。
だけど、そういうことで満足できず、自分の手が届かない物事を欲した場合は、途端に解決が難しくなる。
きっと俺が満足いっていないのは、そういうことなんだろうねぇ。
だから解決するのが難しく、沸々としながらマインチを過ごしていると。
でもさ、そんなのは生まれてくる前から決まっていたことなのだから今更どうになるわけでもなく、ただ死ぬのを待つということだけだと思う。
しかしそれではあまりにも寂しい。
なにか自分の運命という奴に一矢報いることはできないものか?
そう考えることもあるのです。
でも、もし状況が何かしら変わったとして、それは変化したことでリスクやリターンはどのようになるのか?
多少のリターンで大きなリスクになるのかもしれません。
もしそうだとしたら、先ほどの「フラットの状態」の方が全然いいというわけです。
こういうことを昔の人は「隣の芝は青い」と、そう表現したのでしょうねぇ。
なかなか現時点の環境、状況に満足するというのは難しいものですけど、
「受け入れる」
ということも大事だと思うのですね。
「上昇志向」や「完璧主義」というのは時として大変に邪魔な存在となります。
「現状に満足する」
ということが大事なのです。
そういうことは病気になったり、ケガをしたりなど現状のフラットの時点からマイナスになった時に「ありがたさ」がわかるものです。
大きくマイナスになるほどフラットが大事なのだと気付くと。
俺もそういうありがたさをイマイチわかっていないのだな。
そして誰もが面には出さないけど、心の闇のようなものがあって誰もが気楽には生きていないということを忘れないようにしようと思っています。
俺のような朝も何時まで寝ていてもよく、夜も何時まで起きていてもよく、そしていつでもトイレに行くのも食事するのも寝ることも、なにをしても問題ない。
そのような生活をしていたら地に足がついていなくて逆に不安になるということなのだと思います。
なにかに管理、束縛されることで窮屈だけど安心できる。
それは飼い犬が主人がいるからエサをもらえて「安心して生きていくことができる」ということで、その代償に自由がないというのと同じでしょう。
俺の場合は何事にも束縛されず、マインチ自由に生活できている。
それをわざわざ窮屈な生活にする必要はないと。
そういうことをもう少し認識すべきですねぇ。
人生があまり楽しくない。
といっても、そんなに楽しい人生の人などいるわけもないのだけど。
それに、楽しいというそれは人の尺度によって違うものだから、なにを以て図るのか?
そういうことを考えたときに、ムリじゃね?
みたいな感じになる。
たとえば、なにかでとんでもなく困っている人がいたとしたら、その人は、とりあえず生活を「フラット」の状態にしたいだろう。
つまりはゼロの状態まで持っていけたら、一息つけるわけだ。
そしてそれを幸せだと感じる。
では、ゼロ以上の人はどう考えるかと言えば
「もっとこういう人生だったらいいのに・・・」
という理想の話になる。
それは、自分の人生に足りない何かを埋めることで満足度を得るってことですな。
夕飯に1品増えるのもいいし、缶コーヒーを1本買うのもいいかもしれない。
だけど、そういうことで満足できず、自分の手が届かない物事を欲した場合は、途端に解決が難しくなる。
きっと俺が満足いっていないのは、そういうことなんだろうねぇ。
だから解決するのが難しく、沸々としながらマインチを過ごしていると。
でもさ、そんなのは生まれてくる前から決まっていたことなのだから今更どうになるわけでもなく、ただ死ぬのを待つということだけだと思う。
しかしそれではあまりにも寂しい。
なにか自分の運命という奴に一矢報いることはできないものか?
そう考えることもあるのです。
でも、もし状況が何かしら変わったとして、それは変化したことでリスクやリターンはどのようになるのか?
多少のリターンで大きなリスクになるのかもしれません。
もしそうだとしたら、先ほどの「フラットの状態」の方が全然いいというわけです。
こういうことを昔の人は「隣の芝は青い」と、そう表現したのでしょうねぇ。
なかなか現時点の環境、状況に満足するというのは難しいものですけど、
「受け入れる」
ということも大事だと思うのですね。
「上昇志向」や「完璧主義」というのは時として大変に邪魔な存在となります。
「現状に満足する」
ということが大事なのです。
そういうことは病気になったり、ケガをしたりなど現状のフラットの時点からマイナスになった時に「ありがたさ」がわかるものです。
大きくマイナスになるほどフラットが大事なのだと気付くと。
俺もそういうありがたさをイマイチわかっていないのだな。
そして誰もが面には出さないけど、心の闇のようなものがあって誰もが気楽には生きていないということを忘れないようにしようと思っています。
俺のような朝も何時まで寝ていてもよく、夜も何時まで起きていてもよく、そしていつでもトイレに行くのも食事するのも寝ることも、なにをしても問題ない。
そのような生活をしていたら地に足がついていなくて逆に不安になるということなのだと思います。
なにかに管理、束縛されることで窮屈だけど安心できる。
それは飼い犬が主人がいるからエサをもらえて「安心して生きていくことができる」ということで、その代償に自由がないというのと同じでしょう。
俺の場合は何事にも束縛されず、マインチ自由に生活できている。
それをわざわざ窮屈な生活にする必要はないと。
そういうことをもう少し認識すべきですねぇ。