街中でも当番法被が闊歩しています。
2~3日投稿サボっておりました・・・・
この時期、山笠前にここでは書いとかな行かんことのあります。
毎年6月19日は福岡大空襲の記念日です。
歴史上、博多は行くたびも戦火に町ば焼きつくされとりますばってんが
この戦火の一番新しかとが先の大戦ですたい。
米軍の絨毯爆撃で博多の町は焼け野が原になりました。
油まいたあと焼夷弾で焼きつくすとです。
東西は御笠川(石堂川)から樋井川まで、南北は博多湾海岸線から
櫛田神社・大濠公園までの一帯が焼失しまた。
約2時間の空襲によって福岡市の3分の1の家屋が罹災。
戦後の調査によれば、市内でもとりわけ
奈良屋・冷泉・大浜・大名・簀子の5校区の被害が激しく、死傷者の9割ば占めとります。
古門戸町(当時は妙楽寺新町)の我が家も全焼失。
天神地区から博多方面に向けての爆撃やけん
おいしゃんとこから奈良屋小学校方面さぃ逃げた人は全滅。
これって完全に人権無視のアメリカの暴行ですけんね。
軍事施設の無い住民ば攻撃しとりますっちゃんね。
広島、長崎の原爆も一緒です!
うちの爺さんは川端方面(南側)に逃げたけん助かりました。
それも惨劇のあった旧十五銀行に避難しようと思うたばってんが
入られんかってそれが幸いしましたとです。
その終戦の翌年、博多はポジティブです。
松囃子と子供山笠で祭りば復活するとですばい!
その頃、釜山におった親父は「釜山日報」で博多大空襲の記事見て
気が気で無かったて後に聞きました。
軍は徴収した出身地区で部隊ば構成しますけん
同じ対馬小路の元町総代山田さんと一緒に博多の空襲ば
心配しよったらしいです。
「死んでしもうた・・」て家族が思いよった爺さんは
3日後に藤崎の疎開先に戻ってきたそうです。
終戦のその年の暮れ親父が釜山から長崎ば経て博多に寄港して
持って帰った、軍足一杯に詰めた砂糖・かりん糖に残された家族は
大感激したそうです。
その6月19日、その日に生まれたとがけん坊ママ(観音様)です。
いやその日に生まれたっちゃぁありません。(歳があいません)
そげん婆やありまっせん。日にちが一緒のだけです。
日にちが日にちやけん誕生日は覚えとります。
4パカでお店に御祝です。
こげな平和な6月19日ば今後も続けられるごと成らないけませんンね。
けっして戦争はしたらいけません。
さて今日は「古ノ一」の山笠初寄りでした。
生憎おいしゃんな仕事で参加できんかったです。
ばってんが広報周ちゃんから逐一送られてきます。
赤手拭筆頭のU介が喪でられんけん「もさむ」が筆頭代理です。
今年も北海道から送ってもらったお酒の紹介です。
今年はコウヘイが新赤手拭に昇格したようです。
今年の〆の祝いめでた三番も古ノ一らしかったようです。
うち(古ノ一)は序列の上からのお謡いはいつも無視です。
その年活躍するであろう若手に抜擢します。
たぶん今年は新赤手拭のコウヘイやったて推測します。
ここで祝いめでたの歌詞間違えたら即、赤手拭没収ですもんね・・・・
明日は昭和以降からの大黒流の取締現役とOBの会「昭和会」です。
現取締から色々報告があるでっしょうや・・・・・・
楽しみにしときます・・・・・
そうたい・・・・・
法被出してきとかないかんったい!チャンチャン
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