いつもおいしゃんが散歩でお詣りする浜宮ですばってんが
常々これはいつこの場所にできたっちゃろうて思いよります。
ここで近年(て言うても数十年)は山笠の棒洗いがここで行われます。
石碑には大正十三年と掘ってあります。
ぐるりと囲む玉垣には奉賛者名が刻んであります。
うちの爺さんの名前もありの
中対馬小路の落石栄吉さんと濱小路の石橋源一郎さん、両者とも
博多についていろいろ資料ば残された先人です。
こちら元県会議員の故新宮松比古さんのお父さんですね。
こちら石村萬盛堂の善右(ぜんう)さん。
いずれも博多のそうそうたるメンバーで、大正時代博多で活躍した方々で
おいしゃんより二世代上の先輩方たちです。
ばってんが中には一世代上の方々の名前もあります。
西岡さんは妙楽寺(古ノ二)におられたうちの親父と同年代です。
これは対馬小路の元町総代「ひろや旅館」の山田さんも親父と同年代です。
これはなが冨の隆ちゃんの親父さんですね。
ところがこの浜宮があるところは大正時代はまだ海の中やったんです。
当初はまだ丘の方の旧海岸線に建立されたものと思います。
調べたら・・・・
これはおいしゃんが生まれた頃の福岡市営桟橋(現ベイサイドプレイス)
同級生たちもたくさんこのあたりに居住してました。
この左側の建物の左には長浜から博多臨海線が走ってました。
今の国際センターやサンパレスの前の広い道がその跡です。
今の競艇場の沖にその鉄橋がかけてあっておいしゃんたち子供の頃は
そこで遊んでました。
昭和31年~昭和49年にかけて博多ふ頭の埋め立てと護岸工事が行われました。
そしてこれがでけたとが昭和39年です。「博多パラダイス」
株式会社ニュー九州パノラマが資本金一億円で設立され埋立地ば買い上げ
「博多パラダイス」がオープンしました。
ばってんが上図見てわかる通りまだ今のサンセットパーク(浜宮があるとろ)は
まだ埋め立てられておりません。
たぶんそれ以降の埋め立てで昭和40年代に浜宮が今の場所に移設され
その時の奉賛者が隆ちゃんの親父たち一世代上の人の名前が刻んであるとでしょう。
隆ちゃんもそげん言いよりました。
これが昔の海岸線で大浜て言うとが元は東から
竪町浜、金屋町浜、浜口町浜、鏡町浜、市小路浜
萱堂浜、西町浜、芥屋町浜、西方寺浜があってこれば「大浜」て
言いよりました。それが後に上図のごと町名になったとです。
じゃあこの「浜宮」埋め立てがある前はどこにあったとでしょう。
これば今の地図に当てはめてみました。お櫛田さんから見事に
直線上に浜宮があります、そこでこの直線上で旧海岸線やったとは
「西方寺浜」になります。おそらく西方寺浜に旧浜宮はあったと推測します。
たしか何かの文献で昔は西方寺の浜で棒洗いばしよったて読んだ覚えがありますもん。
ばってんがどれくらい前から棒洗いってしよったとでしょうね・・・・
法被でさえ明治以降に着るごとなったとでそれ以前はふんどし一丁です。
締め込みの生地になったともつい最近からであると思います。
棒洗いやら昔からしよったとでしょうか?
ましてや腹巻やらは個人の趣味の問題でそれが正装やら誰も決めとりません。
ところがどうかい?今の変な傾向は・・・・・
もともとそれぞれの自治ば重んじて違う仕来りの町や流が
それぞれ独自の歴史やら流儀ば大事にしてきたとが博多の町です。
博多の山も一部の特権階級もったバカチンたちで変な方向に行きよらんかいな?
初代、栄吉さんも玉垣の陰からそげん思うて見よんしゃるでしょう。
山の歴史やら博多の歴史ばいろいろ勉強しよってついそげなこと思いましたやね。
チャンチャン