新編 辺境の物語 第一巻 カッセルとシュロス 前編 14話
第六章【見捨てられたアリス】①
輸送隊の荷馬車が転回を終えて整列した。あとは退却命令を待つだけとなった。
「エルダさん、そろそろ撤収命令を出した方がいいんじゃない」
アリスとしては荷馬車と一緒に早く安全な所まで退避したい気持ちだ。
「まさか、ここまでは攻めてきませんよね。でも、念のため、もうちょっと後ろへ下がっておいた方が安心かと」
「おっしゃる通りです。負傷者の手当てをすませたら救護班のテントを畳んで馬車に積み込みましょう」
ついでに自分も馬車に乗り込みたいとアリスは願った。
しかし、状況が一変した。
副隊長のイリングたちが馬に騎乗してなだれ込んできたのだ。イリングは手勢を率いて本隊と合流するはずだった。それが、輸送隊の待機しているところまで後退してきたのだった。
「早く、救援を」
「ここには荷馬車の護衛しかいません」
輸送隊のカエデが答えた。
「見れば分かる。兵を出しなさいと言ってるでしょ、隊長を助けるのよ」
自分は逃げてきておきながら、援軍を出せと言う。
さらにイリングは、
「エルダ、お前が余計な口出しをするから、作戦が混乱したんだ」
と、責任を転嫁してきた。
その間にも負傷した兵が担ぎ込まれてくる。これではますます損害が大きくなる一方だ。
兵士たちを助けなくては・・・
エルダは迷わず決断した。
「分かりました。私の部隊の兵士を救援に向かわせます」
そう言ってアリスを振り返る。
「いいですね、アリスさん」
「ええ、まあ、エルダさんがそう言うのでしたら」
だから早く撤収すればよかったのに・・・
逃げるチャンスを失ってアリスは頭を抱え込んだ。
エルダはベルネ、スターチ、リーナを呼び寄せた。救援部隊として送り込めるのはこの三人しかいない。退却してきた隊員たちからおおよその状況は聞き取ってあるので、すぐに三人に指示を出す。
「ベルネさん、スターチさん、リーナさんを援軍として派遣します。急いで敵の陣営に向かってください」
「はいっ」
「すでにリュメック隊長が捕虜になっていた場合は負傷兵の救出を優先しなさい。交戦中の場合は突撃して敵を蹴散らし、隊長を逃がしなさい」
「了解」
「隊長を追って敵が追撃してくるに違いありません、私たちはこの場所で陣地を構築して迎え撃つこととします」
「任せてください。必ずやり遂げて帰還します」
「いいですか、無闇に敵を斬らないように。三人とも無事で帰ってきてください」
ベルネたち三人は「おうっ」と答えて馬に跨って駆け出した。
エルダが次の指示を出した。
「ここも戦場になるかもしれません。カエデさん、輸送隊の荷物を下ろして壁を作り、道を塞いでください」
「了解、軽くした方が馬車が速く走れます」
「すみませんが、荷物の空いたスペースにお嬢様を乗せてください」
お嬢様や三姉妹は安全な場所へ退避させることにした。輸送隊のカエデに連れられて、お嬢様とアンナは荷馬車に乗り込んだ。
「ベルネさんたちが無事に帰ってくれるといいんですが」
「大丈夫ですよ、きっと任務をやり遂げてくれます」
アンナは荷駄を解いてパンを取り出し背嚢に詰めた。戦闘に備え食料を小分けにして持ち運べるようにするのだ。
マリアお嬢様は幾つかの荷物を開けていたが、小さな紙包みを取り出した。
「あったわ、チョコレート。これを持って戦場に行きましょう」
「お菓子は置いていってください。お嬢様は戦場には行かなくていいんですよ、エルダさんが馬車に乗って逃げなさいと言ってくれました」
「なーんだ、つまらない」
*****
シュロス月光軍団はカッセル守備隊の隊長リュメック・ランドリーを包囲していた。リュメックはすでに馬を降り、守備隊の隊員を盾にして身を守っていた。
「おとなしく捕虜になりなさい」
参謀のコーリアスが馬上から見下ろした。
敵は離脱者が続出して兵力は半減している。雑兵には用がないので逃げても深追いするなと命令してある。捕虜にするのは幹部クラスの数人で良いと思っていたが、その狙い通り、隊長の身柄を確保しつつあった。物見からは、守備隊の別動隊らしき部隊を蹴散らしたという連絡が入った。予備の戦力としてフィデス・ステンマルクの部隊を参陣させたが、その必要もなかったほどだ。
信じられないくらいの大勝利である。
月光軍団隊長のスワン・フロイジアはシュロスに凱旋する姿を思い浮かべた。敵の隊長を捕虜にして連行できればローズ騎士団に対して十分すぎる戦果だ。
カッセル守備隊を撃破しただけではない、ローズ騎士団にも、ビビアン・ローラにも勝ったのだ。
この勝利を知らせるためシュロスに伝令を派遣した。伝令には、凱旋の祝賀会を準備しておくようにと伝えてある。この大勝利ならばローズ騎士団の歓迎会より豪華になるだろう。秘蔵のワインを瓶ごと一気飲みしたくなった。
貴重なワインをローラなんかに飲ませるものか。
ベルネ、スターチ、リーナの三人は全速力で馬を走らせた。途中で、後退してきた味方の兵と何度も遭遇した。状況を尋ねると、まだ戦いは続いているという。急げば間に合いそうだ。
馬を走らせ、戦場を見渡せる小高い丘に上った。
しかし、丘の上から眺めるとカッセル守備隊はもはや絶望的な状態だった。隊長の一団は敵陣深く追い詰められ周囲を取り囲まれている。傭兵集団がいたはずだが、形勢が不利と見て戦場から去ってしまったとみえる。そこかしこに月光軍団の旗がはためき、戦況の優位さを誇っているかのようだ。赤と黒に塗り分けられたバロンギア帝国の旗も見える。おそらく、そこが月光軍団の本陣であろう。勝ち戦の余裕からだろうか、本陣の警護に当たっている兵は手薄だった。
「本陣を迂回するか、それとも突っ込むか」
「突っ込むしかないね」
シュロス光軍団の若手の隊員、トリル、マギー、パテリアたちは包囲網の一番外側の外れで待機していた。いずれも軽装備の防具を着けているだけで、剣や槍などの武器は持たず、ゆっくりと寛いでいた。
戦いは月光軍団の楽勝だった。三人とも、激しい戦闘どころか、敵の姿を間近に見ることすらなかった。兵士らしい任務といえば武器の運搬をしたくらいだ。初陣としては物足りないが、なにより怪我をしなくて良かった。
もうすぐ城砦に帰れる。
「こんなことならお菓子を持ってくればよかった」
「お菓子の代わりに雑草でも齧るか」
パテリアが思い切り雑草を引き抜くと土がたくさん付いてきた。
「抜きすぎだよ、パテリア」
「待って・・・何か揺れなかった?」
「遠くだった」
バリリ、地面が揺れた。
大地を引き裂いて地下世界の生き残りニーベルが現れた。黒づくめの鎧兜に身を包み、地の底から這い上がってきたのだ。
「敵だ」「悪魔だ」「逃げろ」ニーベルの姿を見て月光軍団にざわめきが走った。
動揺は瞬く間に広がった。隊員がざわつくのを参謀のコーリアスが「落ち着け」と鎮めようとした。しかし、いったん広がった波紋は消すことができない。副隊長のミレイまでもが浮足立った。
よりによってこんな時に、悪魔ではないかと噂していた黒づくめの不気味な騎士が現れたのだ。
「あんなヤツにかまうな。敵は守備隊の隊長だ、捕虜にせよ」
コーリアスが指示を出したが、包囲していた陣形が崩れ出すのを止められなかった。
「わわあー」
マギーとパテリアは歓声が聞こえただけで腰を抜かした。
<作者より>
物語が始まってここまでは概ね一か月の期間の話でした。この先は第一巻の終わりまで、時間の流れとしては二日間の出来事になります。
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