かつてイタリア・セリエAのローマで10番を背負った元イタリア代表FWトッティがユーロ2002と2002年W杯とユーロ2004と2006年W杯の4大会のアズーリでレギュラーの座を争ったセリエAのユベントスの元10番の元イタリア代表FWデル・ピエロについて、「我々は特徴が非常に似ていたから、一層団結できたんだ。特に困難な場面において、本当にお互いのことを理解していた。」と、当時セリエAを代表するファンタジスタと称された両者の関係は良好だったと明かしました。
続けてトッティは「どちらかがプレーしたら、もう片方が支えていた。監督は決断しなければいけなかったから、我々はそれを尊重しなければならなかったんだ。本当に素晴らしい関係なんだよ。それはだれにも奪うことができない。」と、当時アズーリでのレギュラー争いの舞台裏を明かしました。
ユーロ2000では1998年W杯で10番のデル・ピエロが続けて10番を背負うも20番のトッティがレギュラーでプレーし、以降アズーリでも10番付けたいと直談判してきたトッティに年齢でも先輩のデル・ピエロが自分は背番号7の選手だと10番を譲ったそうですが、このエピソードからも両者のポジション争いがネガティブな関係でなかったことが伺えると思います。
一方で、ローマとユーべでそれぞれ同時期に10番を背負った両者ですが、3-4-1-2でトップ下の元フランス代表MFジダンの前でプレーしたデル・ピエロと、3-4-1-2で元アルゼンチン代表FWバティストゥータと元イタリア代表FWモンテッラの後ろのトップ下でプレーしたトッティは共存できたと思います。
ただ、ユーロ2000当時はデル・ピエロが確かユーべでは流れの中でのゴールがほぼないPK職人であり、かつウディネーゼの元イタリア代表MFフィオーレがトップ下に名乗りを挙げたことでローマのトップ下のトッティが3-4-1-2のセカンドトップに入ったことで、トッティとデル・ピエロがセカンドトップの座を争う構図でしたが。
一方、続く2002年W杯ではラツィオへの移籍に失敗したフィオーレがアズーリから落選してトッティが3-4-1-2のトップ下に入ったことで、デル・ピエロとトッティの共存が観れると思っていました。
ところが大会直前に当時アズーリを率いていたトラパットーニ監督がアタランタでその得点力を発揮していた元イタリア代表MFドニをレギュラーに抜擢すると同時に4-4-2へフォーメーションを変更したことでまたしても共存が叶わず。
その後も両者が並び立てるようなフォーメーションがアズーリで採用されず、ただただ両者の共存は縁がなかった感じがします。