【ご注意】
自殺に関する記述があります。
残された側の当事者として、
またそれを考えたことのある当事者として
書いています。
読んでショックを受けるかも知れないと思ったら、
ページを閉じて下さい。
足跡ひとつ残せなくても
この命は まだ 旅の途中
(L'Arc~en~Ciel『ALONE EN LA VIDA』)
人は、何のために生きるのですか。
それは永遠の問いやって言われますけど、
何となく、
そういうことを、わたしたちは、
なんでもない、いつもの日常の中でも、
冷静に考えた方がいいって思うんですよね。
っていうのはね、
自分はいったい何のために生きてるんやろう?
って、
『辛いときだけ』考えてたなあって思って。
辛くないときには、
そんなこと考えもしないで、
辛くなったときだけ、
生きる意味を問うのって、
なんか…言い方悪いですけど、
ゲンキンやっていうか、
そんなときだけかよって、
自分で思ってしまって。
わたしは幼い頃に、
とても近しい親族を亡くしていて。
『生きること』について意識するよりも早く、
『死ぬこと』を知りました。
二度と会えなくなる。
その悲しみは、静かに暮らしのなかに降りてきて。
大好きな人やったから、
きっとその人も、
死んでしまって、
わたしたちに会えなくなったことをすごく、
悲しんでるんやろうなって思ってました。
事故やったんですけど、
わたしがもう少し大きくなってから、
もしかしたらその人は、
自殺やったかも知れんねん、と、言われて。
事故は事故やとしても、
なぜ、その場所に行ったのか、誰にも分からなかった。
何の用事もない場所に行って、
ケガが原因で亡くなったんですけど、
それは、
自ら、命を断つ決意やったんじゃないかって。
そういう原因となるものが、
誰にも分からへんところに、
隠してあったみたいなんです。
遺書はもちろんなかったし、
それがほんまに原因なんか、
誰にも、分からんのですけど。
その事実は少なくとも、
わたしに、そして残された人に、
罪悪感を、後悔をもたらしました。
わたしたち親族を置いていったその人を責めたり、
も、しました。
なぜ。
誰のせいなの。
わたしやろうか。
それとも、あの人やろうか、それとも。
あの日、最後に会ったとき、
今思えば何か違ったような気がする。
わたしは止められなかったんやろうか。
幼かったとはいえ、
踏みとどまらせることのできる何かを、
わたしは、ほんまに持ってなかったんやろうか。
わたしは、愛されてなかったんやろうか?
とても優しい人で、家族も親戚も大事にしていて、
いつも笑顔で遊んでくれて。
叱られて泣いてるわたしをなだめながら、
なぜ叱られたのか、わたしが分かるまで諭してくれた。
あの人が、
わたしと、会えなくなってもいいって、
思ったの?
わたしのことなんかどうでもいいから、
自分から、さよならしてしまったの?
その疑問は、劣等感へと変わって行きました。
自殺によって親族を亡くした人は、
多かれ少なかれ、罪悪感や劣等感を持つんだそうです。
そういう事実を知って、わたしだけじゃないんや、
って知ったとき、変な言い方ですが、ホッとしたというか。
それまでは、
そんなことを誰にも言えないし、
ましてや親になんて…親だってショックを受けてましたから、
わたしがそんなことを言うたらアカンと、
どっかで思ってたんでしょうね。
今では、
その人は、その人なりに、
親族を愛してくれていたんやろう、
って、思えるようになりました。
その人が取った行動は間違ってる。
それは事実です。
誰にも、悩みを言えなくて、
言えばなんとかなったかも知れんのに、
言わずに抱え込んで、
迷惑をかけられないから、と、
そういう結果を選んでしまった。
わたしたち親族を置いていって、
あなたに会えない悲しみを、苦しみを、
置いていった、そのことは間違ってる。
でも、
命をかけてまで、
守ろうとしてくれたんじゃないか、って。
わたしたちはそんなこと、
望んではいない。
わたしたちのために命を投げ出したのだとしたら、
その人の人生は、
わたしたちのせいで、奪われたことになる。
それでも、
間違ってるなりに、
愛してくれてたんじゃないか、と。
しかし、
生きることは、時にとても難しく、
辛く、苦しいですよね。
こんな思いをしてまで生きていかなアカンのやろうか、
それを考えたことのない人は、
考えたことのある人より少ないんじゃないですか。
自分にも、そういうときは何度か訪れました。
ここにいても、
大切な人たちに迷惑をかけるだけなんちゃうか。
わたしがいない方が、
みんな、幸せなんちゃうか、と。
そこを踏みとどまることができたのは、
先の、大好きな人を失った経験があったからです。
わたしには妹がいます。
憎まれ口も叩くけど、年も近くて、
色んな相談に乗ったり乗ってもらったり、
助けてくれる妹です。
わたしが自ら命を断ったら、
彼女にどれだけの傷を負わせてしまうんやろう。
その思いが、
生きる力とまではいかなくても、
今、ここで、死なんでええやんか、
と、思わせてくれました。
いつか、死ぬねん。
その時は絶対に来るし、
死のうと思えばいつでも死ねる。
だったら、
死んで、彼女のその先の人生を滅茶苦茶にする、
その覚悟があるぐらいなら、
その覚悟で、今は生きたらどうやねん。
と。
それからも、辛いもんは辛かった。
でも、
結局、その辛さは、わたしが作り出してるんです。
分かって欲しいんやったら、
分かってくれって、
誰かに言わな、どないもなれへんのですよ。
言うてもどないもなれへんかもしれません。
でも、どないかなるかもしれへんのです。
言うて、分かってもらえるようになるまで、
途方もない時間がかかるんかもしれません。
でも、その努力は、やってみる価値があるんちゃうかと。
死ぬのは、死んだつもりで、
その努力をやってみてからでも、ええんちゃうか、って。
その努力は、
現在進行形です。
前の章でも書きましたが、
伝えようとすることは、
ほんまはとても難しくて、
努力し続けて行かなアカンのです。
でも、
ちょっとずつ、伝わり始めてるんです。
この努力を始めてから、大方6年。
365日、顔を合わせる相手と6年ですよ。
膨大な時間ですよね。
せやけど、人生80年あるんでしょ。
その中の、たかだか数年なんて。
大したことあれへんわ、
と、…これは自分に言い聞かせてるんですけどね(笑)、
そう思えば、まあ大体のことは、なんとか頑張れるかなって。
それでね、
最初のほうに書いたことなんですけど。
辛いときだけ、生きる意味を探すん?
自分を受け入れてくれて、
自分のためになにかをしてくれるような、
そんな人いてへんわ、
わたしは孤独で、誰にも必要とされなくて、
生きてる意味も価値もない人間なんや。
そんな風に思ったことないですか。
わたしは思ってたんですよ。
とても愛した人と別れた時とか。
でもね、冷静に考えたらおかしいでしょ?
わたしの価値は、
『わたしを必要とする誰か』が、勝手に決めるん?
その『誰か』って、誰?
その人かって、わたしと同じ人間でしょ。
なんで、
その人に、わたしの価値を決めて、なんて、
カミサマみたいな大役押し付けるん(笑)
わたしカミサマは信じてませんよ(笑)仏様もよくわからん。
無宗教なんで。
でも、そんなんおかしいでしょ。
逆に人から、
「かいらちゃん、ぼくの価値は、
きみがぼくを必要としてくれることだけやねん、
ぼくの価値をきみが背負って」
って言われたら。
いや、なんでわたしが…
そんなこと言われても…
ようせんわ、ってなりますやん(笑)
わたしにしか、彼の価値がないはずないですやん。
『誰かの為に生きる』って、よく言いますよね。
わたしもよく言うてました。
でも、その意味を、わたしは勘違いしてたんです。
その誰かに依存して、
その誰かの為に、自分の何かを犠牲にしてた。
それは、
その人の為に生きるって言いながら、
その人の『せい』に、してたんですよ。
あなたさえいればいいから、
他の人はどうでもいい。
自分の時間をあなたにさえ使えればいい。
それは、
あなたに全部あげるせいで、
わたしには何も残らない、
それは仕方ない、わたしが悪いんじゃない。
あなたのせい。
そう、言うてるんと同じとちがいますか。
それは、ほんまに、相手を大切にできてるんですかね。
逆で考えてみたんですよ。
わたしは、大切な人に、
どうあって欲しいやろうか、って。
その人が望むことをして欲しい。
人生を、悔いのないように生きて欲しい。
失敗したってかまへんのです。
何回こけてぶつかっても、
ひたむきに、日々を着実に、夢に向かって歩いて欲しい。
夢は、何もどえらいもんじゃなくていいんです。
歌が上手くなりたいとか。
字がキレイにかけるようになりたいとか、
一人でも多くの人としゃべれるようになりたいとか、
些細と思われるような、そんなことでいいんです。
ただ、前に…昨日より今日、と、前に進む、
その姿を、わたしはきっと、
誇りに思えるやろう、って。
そこまで思って、ようやく、
ああ、誰かの為に生きるということは、
『その誰かが、わたしを誇りに思えるように生きる』
ってことなんちゃうん、と、気づいたんですね。
それはつまり、
わたしが、ちゃんとすることなんです。
何をどう、ちゃんとするんかは難しいですけど、
要するに、
わたしが、
わたしの為に、生きることでもあるんですよね。
幸せなときには、こういうことってなかなか考えへんのです。
それどころか、幸せであることすら、
わたしたちは忘れがちなんですよね。
でも、わたしらの毎日の為に、
どれほど多くの人が、頑張ってくれてるんか、
何でもないときに、考えてみたんです。
わたしが朝起きて、
顔を洗うためにひねった蛇口から、
飲んでもお腹を壊さないような綺麗な水が出るために、
一体どれほどの人が、働いてくれているんか。
わたしが捨てたごみを、最後まで処理するのに、
延べ何百人が働いてくれているんでしょう。
電気が送られてくるために。
パンを、コーヒーを口にするために、
日本だけじゃない、この地球の上にいる、
遠い遠い国の人が、働いてくれているんです。
そして、
わたしたちは、その人たちに、
それらを利用することでさやかな対価を支払い、
僅かでも、彼らのお役に立てているんですよね。
誰も、あなたのために、何もしてくれていませんか?
あなたは、ほんまに、誰の役にも立たへんのですか。
そんなことない。
あなたがそこにいて、
何かしら、生活をすることで、
あなたに助けてもらっている人はいてるんです。
あなたは、日々を暮らすだけで、
いつも、見たことのない誰かに、
助けてもらっているんですよ。
それでは不満ですか?
誰かの、たった一人になりたいですか。
だったら、努力です。
まずは、精一杯、自分のために、生きる努力。
それは途方もないパワーも、時間も必要とします。
それができて、ようやく、
誰かのたった一人になれるほどの、
努力ができる『スタート地点』に立てるんですよね。
生きるということは、
本当に努力の要ること。
でも、そうやって、歯をくいしばりながら、
時には泣いても、
大切なものは何なのか、
それを知って、生きている人を、
わたしは尊敬するし、憧れます。
先日、
妹の同級生の方が、
自ら命を断ち、
還らぬ人となってしまいました。
もしもどこかで、
そういうことをあなたが考えているなら、
少しだけ、ここに書いたようなことを、
考えてもらえたらなあ、と、思います。
自殺に関する記述があります。
残された側の当事者として、
またそれを考えたことのある当事者として
書いています。
読んでショックを受けるかも知れないと思ったら、
ページを閉じて下さい。
足跡ひとつ残せなくても
この命は まだ 旅の途中
(L'Arc~en~Ciel『ALONE EN LA VIDA』)
人は、何のために生きるのですか。
それは永遠の問いやって言われますけど、
何となく、
そういうことを、わたしたちは、
なんでもない、いつもの日常の中でも、
冷静に考えた方がいいって思うんですよね。
っていうのはね、
自分はいったい何のために生きてるんやろう?
って、
『辛いときだけ』考えてたなあって思って。
辛くないときには、
そんなこと考えもしないで、
辛くなったときだけ、
生きる意味を問うのって、
なんか…言い方悪いですけど、
ゲンキンやっていうか、
そんなときだけかよって、
自分で思ってしまって。
わたしは幼い頃に、
とても近しい親族を亡くしていて。
『生きること』について意識するよりも早く、
『死ぬこと』を知りました。
二度と会えなくなる。
その悲しみは、静かに暮らしのなかに降りてきて。
大好きな人やったから、
きっとその人も、
死んでしまって、
わたしたちに会えなくなったことをすごく、
悲しんでるんやろうなって思ってました。
事故やったんですけど、
わたしがもう少し大きくなってから、
もしかしたらその人は、
自殺やったかも知れんねん、と、言われて。
事故は事故やとしても、
なぜ、その場所に行ったのか、誰にも分からなかった。
何の用事もない場所に行って、
ケガが原因で亡くなったんですけど、
それは、
自ら、命を断つ決意やったんじゃないかって。
そういう原因となるものが、
誰にも分からへんところに、
隠してあったみたいなんです。
遺書はもちろんなかったし、
それがほんまに原因なんか、
誰にも、分からんのですけど。
その事実は少なくとも、
わたしに、そして残された人に、
罪悪感を、後悔をもたらしました。
わたしたち親族を置いていったその人を責めたり、
も、しました。
なぜ。
誰のせいなの。
わたしやろうか。
それとも、あの人やろうか、それとも。
あの日、最後に会ったとき、
今思えば何か違ったような気がする。
わたしは止められなかったんやろうか。
幼かったとはいえ、
踏みとどまらせることのできる何かを、
わたしは、ほんまに持ってなかったんやろうか。
わたしは、愛されてなかったんやろうか?
とても優しい人で、家族も親戚も大事にしていて、
いつも笑顔で遊んでくれて。
叱られて泣いてるわたしをなだめながら、
なぜ叱られたのか、わたしが分かるまで諭してくれた。
あの人が、
わたしと、会えなくなってもいいって、
思ったの?
わたしのことなんかどうでもいいから、
自分から、さよならしてしまったの?
その疑問は、劣等感へと変わって行きました。
自殺によって親族を亡くした人は、
多かれ少なかれ、罪悪感や劣等感を持つんだそうです。
そういう事実を知って、わたしだけじゃないんや、
って知ったとき、変な言い方ですが、ホッとしたというか。
それまでは、
そんなことを誰にも言えないし、
ましてや親になんて…親だってショックを受けてましたから、
わたしがそんなことを言うたらアカンと、
どっかで思ってたんでしょうね。
今では、
その人は、その人なりに、
親族を愛してくれていたんやろう、
って、思えるようになりました。
その人が取った行動は間違ってる。
それは事実です。
誰にも、悩みを言えなくて、
言えばなんとかなったかも知れんのに、
言わずに抱え込んで、
迷惑をかけられないから、と、
そういう結果を選んでしまった。
わたしたち親族を置いていって、
あなたに会えない悲しみを、苦しみを、
置いていった、そのことは間違ってる。
でも、
命をかけてまで、
守ろうとしてくれたんじゃないか、って。
わたしたちはそんなこと、
望んではいない。
わたしたちのために命を投げ出したのだとしたら、
その人の人生は、
わたしたちのせいで、奪われたことになる。
それでも、
間違ってるなりに、
愛してくれてたんじゃないか、と。
しかし、
生きることは、時にとても難しく、
辛く、苦しいですよね。
こんな思いをしてまで生きていかなアカンのやろうか、
それを考えたことのない人は、
考えたことのある人より少ないんじゃないですか。
自分にも、そういうときは何度か訪れました。
ここにいても、
大切な人たちに迷惑をかけるだけなんちゃうか。
わたしがいない方が、
みんな、幸せなんちゃうか、と。
そこを踏みとどまることができたのは、
先の、大好きな人を失った経験があったからです。
わたしには妹がいます。
憎まれ口も叩くけど、年も近くて、
色んな相談に乗ったり乗ってもらったり、
助けてくれる妹です。
わたしが自ら命を断ったら、
彼女にどれだけの傷を負わせてしまうんやろう。
その思いが、
生きる力とまではいかなくても、
今、ここで、死なんでええやんか、
と、思わせてくれました。
いつか、死ぬねん。
その時は絶対に来るし、
死のうと思えばいつでも死ねる。
だったら、
死んで、彼女のその先の人生を滅茶苦茶にする、
その覚悟があるぐらいなら、
その覚悟で、今は生きたらどうやねん。
と。
それからも、辛いもんは辛かった。
でも、
結局、その辛さは、わたしが作り出してるんです。
分かって欲しいんやったら、
分かってくれって、
誰かに言わな、どないもなれへんのですよ。
言うてもどないもなれへんかもしれません。
でも、どないかなるかもしれへんのです。
言うて、分かってもらえるようになるまで、
途方もない時間がかかるんかもしれません。
でも、その努力は、やってみる価値があるんちゃうかと。
死ぬのは、死んだつもりで、
その努力をやってみてからでも、ええんちゃうか、って。
その努力は、
現在進行形です。
前の章でも書きましたが、
伝えようとすることは、
ほんまはとても難しくて、
努力し続けて行かなアカンのです。
でも、
ちょっとずつ、伝わり始めてるんです。
この努力を始めてから、大方6年。
365日、顔を合わせる相手と6年ですよ。
膨大な時間ですよね。
せやけど、人生80年あるんでしょ。
その中の、たかだか数年なんて。
大したことあれへんわ、
と、…これは自分に言い聞かせてるんですけどね(笑)、
そう思えば、まあ大体のことは、なんとか頑張れるかなって。
それでね、
最初のほうに書いたことなんですけど。
辛いときだけ、生きる意味を探すん?
自分を受け入れてくれて、
自分のためになにかをしてくれるような、
そんな人いてへんわ、
わたしは孤独で、誰にも必要とされなくて、
生きてる意味も価値もない人間なんや。
そんな風に思ったことないですか。
わたしは思ってたんですよ。
とても愛した人と別れた時とか。
でもね、冷静に考えたらおかしいでしょ?
わたしの価値は、
『わたしを必要とする誰か』が、勝手に決めるん?
その『誰か』って、誰?
その人かって、わたしと同じ人間でしょ。
なんで、
その人に、わたしの価値を決めて、なんて、
カミサマみたいな大役押し付けるん(笑)
わたしカミサマは信じてませんよ(笑)仏様もよくわからん。
無宗教なんで。
でも、そんなんおかしいでしょ。
逆に人から、
「かいらちゃん、ぼくの価値は、
きみがぼくを必要としてくれることだけやねん、
ぼくの価値をきみが背負って」
って言われたら。
いや、なんでわたしが…
そんなこと言われても…
ようせんわ、ってなりますやん(笑)
わたしにしか、彼の価値がないはずないですやん。
『誰かの為に生きる』って、よく言いますよね。
わたしもよく言うてました。
でも、その意味を、わたしは勘違いしてたんです。
その誰かに依存して、
その誰かの為に、自分の何かを犠牲にしてた。
それは、
その人の為に生きるって言いながら、
その人の『せい』に、してたんですよ。
あなたさえいればいいから、
他の人はどうでもいい。
自分の時間をあなたにさえ使えればいい。
それは、
あなたに全部あげるせいで、
わたしには何も残らない、
それは仕方ない、わたしが悪いんじゃない。
あなたのせい。
そう、言うてるんと同じとちがいますか。
それは、ほんまに、相手を大切にできてるんですかね。
逆で考えてみたんですよ。
わたしは、大切な人に、
どうあって欲しいやろうか、って。
その人が望むことをして欲しい。
人生を、悔いのないように生きて欲しい。
失敗したってかまへんのです。
何回こけてぶつかっても、
ひたむきに、日々を着実に、夢に向かって歩いて欲しい。
夢は、何もどえらいもんじゃなくていいんです。
歌が上手くなりたいとか。
字がキレイにかけるようになりたいとか、
一人でも多くの人としゃべれるようになりたいとか、
些細と思われるような、そんなことでいいんです。
ただ、前に…昨日より今日、と、前に進む、
その姿を、わたしはきっと、
誇りに思えるやろう、って。
そこまで思って、ようやく、
ああ、誰かの為に生きるということは、
『その誰かが、わたしを誇りに思えるように生きる』
ってことなんちゃうん、と、気づいたんですね。
それはつまり、
わたしが、ちゃんとすることなんです。
何をどう、ちゃんとするんかは難しいですけど、
要するに、
わたしが、
わたしの為に、生きることでもあるんですよね。
幸せなときには、こういうことってなかなか考えへんのです。
それどころか、幸せであることすら、
わたしたちは忘れがちなんですよね。
でも、わたしらの毎日の為に、
どれほど多くの人が、頑張ってくれてるんか、
何でもないときに、考えてみたんです。
わたしが朝起きて、
顔を洗うためにひねった蛇口から、
飲んでもお腹を壊さないような綺麗な水が出るために、
一体どれほどの人が、働いてくれているんか。
わたしが捨てたごみを、最後まで処理するのに、
延べ何百人が働いてくれているんでしょう。
電気が送られてくるために。
パンを、コーヒーを口にするために、
日本だけじゃない、この地球の上にいる、
遠い遠い国の人が、働いてくれているんです。
そして、
わたしたちは、その人たちに、
それらを利用することでさやかな対価を支払い、
僅かでも、彼らのお役に立てているんですよね。
誰も、あなたのために、何もしてくれていませんか?
あなたは、ほんまに、誰の役にも立たへんのですか。
そんなことない。
あなたがそこにいて、
何かしら、生活をすることで、
あなたに助けてもらっている人はいてるんです。
あなたは、日々を暮らすだけで、
いつも、見たことのない誰かに、
助けてもらっているんですよ。
それでは不満ですか?
誰かの、たった一人になりたいですか。
だったら、努力です。
まずは、精一杯、自分のために、生きる努力。
それは途方もないパワーも、時間も必要とします。
それができて、ようやく、
誰かのたった一人になれるほどの、
努力ができる『スタート地点』に立てるんですよね。
生きるということは、
本当に努力の要ること。
でも、そうやって、歯をくいしばりながら、
時には泣いても、
大切なものは何なのか、
それを知って、生きている人を、
わたしは尊敬するし、憧れます。
先日、
妹の同級生の方が、
自ら命を断ち、
還らぬ人となってしまいました。
もしもどこかで、
そういうことをあなたが考えているなら、
少しだけ、ここに書いたようなことを、
考えてもらえたらなあ、と、思います。