昨日の午後から青空が戻って来た長野です。ただ、昨夜11時過ぎの雷雨にはビックリしました。久し振りの雷に、「このまま寝ても大丈夫か!」と心配になったほどです。
5月10日、泉涌寺方面へ行った後編です。
前編の最後は「善能寺」でした。そこから進んで泉涌寺に入りましたので、直接、境内の仏殿の横に出ました。
泉涌寺は弘法大師が草庵を結んだのが始まりとも言われています。
仏殿の阿弥陀・釈迦・弥勒の三尊仏や雲竜図、狩野探幽作の白衣観音図などを拝観しました。普段はダラダラしている私でも、身が引き締まる思いです。
仏殿から向かったのが霊名殿唐門。霊名殿には歴代天皇の御尊牌が安置されています。
霊名殿の横から裏手に回ると、天皇陵である月輪陵(つきのわのみささぎ) があります。今まで参拝したことが無かった場所です。
泉涌寺が「御寺」と呼ばれるのは、このように皇室との繋がりが深いからとのこと。
仏殿に戻り、楊貴妃観音堂に寄る前に、大門から見た境内の写真を撮って来ました。この景色でないと泉涌寺に来た気分になりません。
大門から見ると参道が仏殿に向かって下がっているのが実感できます。「降り参道」と呼ばれる伽藍配置です。
大門の横にある「絶世の美女」と言われる楊貴妃観音像とご対面へ。
女性から「美人祈願の観音様」として親しまれていますが、婆さんはあまり関心が無いようでした。
この像には彩色がしっかり残っていて、本当に綺麗だと思います。
名残り惜しさを感じながら、泉涌寺道を戻ります。帰り際に立ち寄ったのが法音院。泉山七福神巡りの第7番、寿老人をお参りしてきました。
東大路通に戻り、「どこかで昼食を」と思いながら五条方面に向かっていくと、左に鳥居が見えました。新熊野神社です。
紀州の熊野神社を信仰していた後白河法皇が平清盛に造営させたとのことで、足利義満が世阿弥の猿楽能を見てその舞に魅了されたのもここです。
ここからバスで帰ることを条件に寄って来ました。
鳥居をくぐって直ぐ左に樹齢は900年と推定されている御神木「影向 の大樟」 があります。特にお腹の神として信仰を集めています。
私も婆さんも木に触って来ましたが、お腹の脂肪を減らす効果は期待できないそうです。
昼食は五条の「大谷本廟」にある食事処で「湯葉丼」を食べることにし、タイミング良く来たバスに乗って五条坂に戻りました。
大谷本廟は、浄土真宗の宗祖親鸞聖人のご廟所(墓所)です。
ここの食事処は誰でも利用することが出来て、私のお薦めは「湯葉丼」。美味しかったです。
食事の後、「ホテルで休みたい」と言う婆さんと別れ、私は建仁寺まで行って来ました。八坂通りに出ると建仁寺です。
先に建仁寺の横にある建仁寺塔頭寺院「禅居庵」の境内社「摩利支天堂 」に行きました。魔利支天のお使いである亥が狛犬(狛猪?)です。猪は私の干支でもありますので、ここと御所の西側にある「護王神社」は私の守護神だと思っています。
ここの「おみくじ」の入れ物は可愛い猪。
建仁寺へは、摩利支天堂から直接、境内に入ることが出来ます。
建仁寺は京都最古の禅寺。国宝の俵屋宗達筆「風神雷神図屏風」でも知られています。私、本物は見たことがありません。
このお寺は栄西禅師を開山として建立され、その栄西禅師が宋から茶の種を持ち帰り 広めたのが日本茶の始まりと言われています。
お茶の木の生垣の中に置かれている「茶碑」。
華やかな祇園の一角にありますが、静かでとても落ち着く境内です。
境内を散策後、北門を出て、西花見小路通、花見小路と祇園町の雰囲気を楽しみながら歩き、東大路通に向かいました。
建仁寺の直ぐ近く、東大路通に面して「安井金比羅宮」があります。
天智天皇の時代に藤原鎌足が一堂を創建 したのが始まりとされ、断ち物の祈願所として信仰されてきたようです。
「縁切り縁結び碑」が有名で、この日も多くの女性の姿がありました。
「いつの世も悩みの多い人が多いんだな~」と思いながらホテルに戻りました。
京都を歩いて「凄いな~!」と思うのは、歴史の教科書に載っている有名人が、あちこちに当たり前のように出てくること。
そんなところが、京都の魅力になっているのかも知れません。
今日の歩数は、16,156歩。毎日良く歩いていますが、今のところ足腰の痛みは出ていません。京都の神仏のおかげだと思いますが、自助努力も必要。これから「リハビリ、リハビリ!」です。