八幡堀と白壁土蔵Ⅰ(F8号)
四国平定での戦功により、天正13年(1585)近江蒲生・神崎・野洲の3郡ほか43万石を与えられた羽 柴孫七郎秀次(後の豊臣秀次)は、八幡山々上に築 城するとともに湖畔を埋め立てて職人町と商人町とからなる先進的な城下町を作りました。
その都市計画にあって、もっとも重要な役割を担ったものが八幡堀です。堀は、内濠として城下を横断 し八幡城を防御するという軍事的な側面と同時に、琵琶湖(築城当時、全国の物資流通の要所)を通過する船団に八幡浦への経由を義務づけ、八幡を陸上 交通との連絡の場に発展させようとする商業的側面 を併せもったものでした。(近江八幡資料より)
四国平定での戦功により、天正13年(1585)近江蒲生・神崎・野洲の3郡ほか43万石を与えられた羽 柴孫七郎秀次(後の豊臣秀次)は、八幡山々上に築 城するとともに湖畔を埋め立てて職人町と商人町とからなる先進的な城下町を作りました。
その都市計画にあって、もっとも重要な役割を担ったものが八幡堀です。堀は、内濠として城下を横断 し八幡城を防御するという軍事的な側面と同時に、琵琶湖(築城当時、全国の物資流通の要所)を通過する船団に八幡浦への経由を義務づけ、八幡を陸上 交通との連絡の場に発展させようとする商業的側面 を併せもったものでした。(近江八幡資料より)