Lady Ella

ひとり語り・・・

会話・・・対話・・・???

2006-07-07 16:36:23 | 雑記
 私は喋る・・・と言う事が生業の一部になっている。いろいろな職種の人が、いろいろな立場からいろいろな手法を使い、いろんな論法でそこここにある由無し事を話してくれる。私はそれを聞き、時に同調し時に反論などをしている。楽しい会話になる事がほとんどなのだが、まぁ、そこのところは対、人、であるが故の難しさを感じずにはいられない事も多々あるのではあるのだけれども・・・

 そして冒頭の概要文である。たくさんの報道がなされて、4th of julyの中でも書いたのだけれどあまりこの問題には触れたくはない。ただ、この1節は気になった。と言うよりもこんな論法で話しをする人を実はたくさん見てきたからなのである。どう言う事かと言えば、会話をしている中でお題目が決まる。そこから多岐に話しというのは進んで行くのだけれども、その根本を見失う。なんの話しをしているのか解らなくなってしまう。そんな人がたまにいる。ただ、ここにも最低2つのタイプがおり一つは、まぁ、興奮、熱くなってしまうことにより本題を見失ってしまうタイプ。もう1つは確信犯的に、自分の都合に因って会話の本題を歪めあらぬ方向に導いていこうとするタイプ。である。どちらのタイプも、片や熱くなり過ぎれば拳を握り締めて机の1つも叩き始めてしまうだろう。片や論理的にその話の根本を歪め話の道筋を自分の都合のいい方向に持っていこうとしたとしてもそれが果たせぬ場合には声高になり、恫喝の1つもかまして、やはり机を叩くなんてな行動にでてしまう。それはどちらもどこか都合が悪くなり自分の思い通りに話が進んでいかない苛立ちがなせる事なのであり、論理の崩壊以外の何物でもないように思われる。

 ほぼ、同じような価値観と環境と、もっと言えば人間の根本的な資質なんてのはあまり違いがない、同国人の中でもこのような事は日々起こっている。それが、やはり資質の部分では変わらないであろう他国の人、しかし、そこでは環境は大きく違い多種多様な価値観を有して、ましてそれ相応の教育を受けてしまった上で国の利益・・・これがまた複雑だ、ここで価値のない事がそこでは無限大の価値を持ってしまう・・・を踏まえて対話をしていかなければいけないってのは非常に難しい。私の基本姿勢、堅い拳を有しないものは対話の席上に着くべきではないってのがあるのだけれども、それだけではやはり彼の国と同じになってしまう。世界の縮図であるアメリカ国のようであるのならばルールを作り、それに則った硬軟合い合わせた戦略と言うのも取れるのであろうが、我が美しき国はそれを潔しとはしないのであろう。

 なんだかんだと書き連ねてみたのだけれど、私は思っている。私はこの国を愛しているしそれと同等の尊敬の念を他の国に対しても持っているつもりだ。何故にそうなったかと言えば学校で教わる歴史ではない歴史。これは人が生きてきた証の部分をね、私なりに勉強してみたから。自分史を振り返ってみればよく解るように良い事もあれば悪い事もある。善き事をした事もあれば悪しき事に手を染めざるを得ない事も在る。そんなこんなを踏まえた上で相手の立場を考えて対話の席に着き、そこから一歩踏み込んだ人としての会話をしていくべきなんだろうなと、思っている。
 概要文に書かれたような相手の事を考えられない狭量な、勝手な事を私は断じてするつもりもなければ許すつもりもない。勝手な解釈と言うものほど暴力的な結末の源はないのだから。大前提はやはり国家でもなんでもいいのだけれども、それを担う個人としてのいろいろな精度を高めていくしかないんだろうなぁ。まぁ、それが許されると言う大大前提が必要なのだろうけれどもね。しかしだ、私は私の隣人が銃で武装している事を、もし、知ったとしたのならば、それに対して丸腰で立ち向かうほどの蛮勇は持ち合わせていないし、馬鹿ではない事を付け加えておく。か。

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