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鷹野大橋から観る富士山、滅多に見えないので感動しました。
(鶴見情報を中心に日常気になった事などを綴っていきます)

川崎南加瀬天照皇大神

2014-03-18 03:18:48 | 神社仏閣

加瀬の鎮守様。

 鎌倉時代末期の元弘年間に建てられ、

太田道潅がこの地に築城を企画して参篭した暁の夢に、東北の空に丹頂鶴の舞うのを見て、

そこに千代田城を築いたという由緒をもつ神社です。

 

 この鳥居の先の階段を登った先に

ここからは見えないのですが、もう一つ鳥居があり

天照皇大神の拝殿があります。

 

 わりと急な石段です。

 

 上りきった所。

左手に社務所があり、

正面が天照皇大神拝殿です。

 

右を向くと、ちょっとした庭があり、

その先を行くと動物公園に続いているのです。

いつも天照皇大神にお参りに来るときは、

動物公園のほうから来ます。

あの石段は上りたくないのですから。

 

 

奥に見えるのが社務所

 

 

上から見た鳥居

こうして見ると、わりと急な石段どころじゃないですね。

とてつもなく急な石段でした。


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新編武蔵風土記稿による天照皇大神の由緒 

(南加瀬村)
八幡社
夢見ヶ崎の邊小名山崎にあり、南向の小祠鎮座の初を失へり、村持。
神明社
北の方村境加瀬山にあり、鎮座の始を傳へず、

社前に拝殿あり二間に二間半前に鳥居あり、

社前に石階あり高さ六丈にあまれり、

山の麓は打ひらけたる平田なれば、この階の中ばより安房上総の山々、久良岐本牧十二天の邊を見おろし、

眼界殊に濶し。

相傳ふ本社建し所の土中に石櫃などありて年久しきことなれば其破壊せし方片石を得たるにや定かならず。

辨天社
前にいへる神明の山續き西の方にあり、石の小祠なり村持。

白山社
前の祠辨天社の山につづきてあり小祠にて是も村持。

第六天社
是も白山の並びにあり、石にて作れる小祠なり、村持。

石神社
西方の田間にあり、村持。

神明社
村の南東小祠岩瀬にあり例祭九月十六日なり、是をすべて鎮座の年代を傳へず。

末社稲荷天神合社。社に向て右の方にあり。(新編武蔵風土記稿より)

 

神奈川県神社誌による天照皇大神の由緒 

当社は古く元弘年間の勧請で、

康正・長禄の頃、太田持資入道道灌此地に一城を築かんと企画し、屡々本社に祈願を籠めた。

一夜参詣の暁東北の空天に丹頂の舞うを夢み、其の処に一城を築いた。

それが江戸城であるが、其の曲浦を舞鶴の入江と名附け、

城を千代田城と称うのは、本社丹頂の霊夢に因るという。

当社鎮座地の盗難小字名を太田道灌夢見ヶ崎と呼ぶのはこの故である。

其の後明応・大永の頃相州小田原北条氏の祈願所となり、

北条氏政によって別に歯救山神社の一社を勧請した。

祭神は白山比売命、

社殿は八棟造で荘厳を極め、

月次北条氏より代参があって祭事を執行したと伝えるが、

天正年間武蔵兵乱の際荘厳優美を尽したる社殿・旧記・記録等悉く灰燼に帰した。

降って天保八年村民旧時を偲び、大いに工を起して本殿及拝殿を再建し、

明治十七年更に拝殿を改築、大正四年村内無格社五社を合祀した。

此の年十二月冬至の日村民氏子諸人の司宰く星神の祭事を行ない現在に至る。

新編武蔵風土記「南加瀬村」の項に「神明社、北の方村境加瀬山にあり、鎮座の始を伝えず。

社前に拝殿、二間に二間半。前に鳥居あり。社前に石階あり高さ六丈にあまれり。

(中略)本社建ちし所の土中に石櫃あり、云々」と記されている。(神奈川県神社誌より)

 

 

 



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