明治の憲法が制定された時、京都の公家達は次のように言つた。
「此の憲法のある限り、今は金帝さまだが(今上皇帝をもぢり金帝と云ふ)、次は銀帝、次は 銅帝、次は泥帝、次は哀帝に成る」と。まことに、其の通りに成りつつある。
明治憲法は「祖宗の遺訓を守る」と言ひながら、天皇に軍服を着せて「覇王(大元帥)」とな し、てんと恥ぢる事なく、憲法第一章・三條において、「天皇は神聖にして侵すべからず」と明 記した。
其の後は、天皇は國家機關の求める事に從つて國政・國事を行ふ「立憲君主」に成つていく。 此のことを指して京都の公卿達は異議を申し立てたのである。 まづ以て、天皇は神敕に基づいて生まれながらに祭祀王であられる。
國民の尊崇は神祕の中にあ る。其れを輔弼する公卿達は、日常を神事の中で生活してきた。禁中(皇室)は神事が基本で ある。其れが日本國民の宗家としての生き方である。 『禁祕抄』(順徳天皇著・承久年間成る)は宮中の故實・慣例を記したもので、其の中に
「禁中は年中、神事を以て大事とする」との意が記されている。
皇室は幾度か危機に瀕したが、必 ず天皇は神事を守り祭祀王の道を守られたのである。 然るに「明治憲法では、御政務とて、神事中心の生活を侵害してゐる」と言ふのが、明治の公 家達の言葉である。此のことは「現行憲法」でも變はる事はない。ましてや「皇室外交」とて、天皇を政治外交の場に引き出すことは天皇の御本質を損なふものである。
山陰
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