国家戦略室 (アンダーグラウンド)

日本本来の政治、統治、歴史についての研究

chinaはシナ 支那ととすると本邦初公開という本邦は・・

2012年06月09日 | Weblog
 太古秘史はそれぞれ混乱はあるがアジア大陸がトヨアシハラノミズホノクニであり、もともとアジア大陸は日本の天皇が治めていたことになっている。その呼び名が、シナ(支邦)という表現であろう。半島は任那とよんだが、その範囲は徐々に限局されていったと考えられる。

 契丹古伝などを総合して考えると、白頭山にスサノオとその眷属が住み着き、現地の人間と交じり合って反映していった。熊女に象徴される一族とは融和し、文明を伝えられたが、虎族とはうまくゆかなかった。

 時代が下り、殷は白頭山一族であり、周は西から来た。漢族ではないかと思われる。
漢族は西から東へ征服の手を伸ばし、最後に日本に入り込んで蘇我氏に入り込み漢人を使って天皇を殺害した。蘇我氏は名家であったが蘇我韓子、高麗には大陸人の血が流れている。漢人は漢民族とことなるという説もあるが、ここでは因縁ありと考える。

 殷周革命は約3000年前で紂王の堕落に始まるが妲己を利用した太公望の策略だったといわれる。

 箕子はチワイ一族に助けられ朝鮮国を建国した。位置に関しては諸説ある。
箕子には子がなかった。しかしこのとき日本から遠征軍があり、皇子に国つがせた。
これは契丹古伝からの解釈である。

 果たして3000年前に日本にそれだけの軍団があったかということだが、神武以前にも皇室が存在していたことを古文書は伝えている。それらは物部氏が去ったあと失われた。

 中国、特に満州には日本人と気質の似たものが多かった。更にジンギスカンは源義経である。

 つまり東の族と西の漢族の系統とは、因縁の対立がある。また半島にも二つの種族の気質があるとみなければならない。漢族系と白頭山族系。


※シンガポール日本文化協会会長 顔尚強によれば、「漢民族はその昔、漢民族とは称されておらず、華夏族と称されていた。
 漢民族という名称は漢王朝(BC 206~AD 220)の時代から今日まで使われてきてはいるが、今でも本土の中国人は中国のことを華夏、中華文明を華夏文明と呼ぶことがある。
 学者によると、周王朝(BC 1066~BC 256)の創立者である周武王が商王朝(殷王朝ともいわれる。BC 16世紀~BC 1066)の末代の商紂王を討ち取った後中原に定住し、その一族を中国の伝説上の先聖王である神農・黄帝・堯・舜をちなんで「華族」と称した。また夏王朝(BC 21世紀~BC 16世紀)の創立者の大禹の末裔が「夏族」と称されていたことから、中原に居住していた族群を「華夏族」と称するようになったと言われている。」

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