私は最初から神道を信じていたわけではないし、大本を妄信してきたわけではない。
父は若いころ共産主義に傾倒したが、生涯宗教を阿片と呼びながら、正月は初詣に出かけ、祝日には門に国旗を掲げた。昭和30年代にはまだそういう風習は残っていたし、私もそれに抵抗はなかった。
母方の祖父は生き仏のような人で、もと浄土宗であったが親戚の強要で仏壇を破壊され、別宗派に改宗させられたのだが、素朴に題目を唱え祈る人であった。誠に天使のような人であった。当時仏壇を破壊する宗派など想像はつくであろう。
私自身は保育園の時代に物質が粒子で出来ているという話を聞いて、いろいろと世界を想像する哲学少年だった。
中学生くらいから増谷氏の「仏陀」という本に出逢って仏教研究にのめりこんでいった。人間の完成形が存在するのならそうした人々を研究すべきと思った。中学の時にはすでに友人から釈迦坊主と言われていた。
その前後は太宰治の人間失格や高橋信二の釈迦の生い立ちに関する本、ヘッセのシッダールダ(釈迦をモチーフにした小説)などに感銘をうけ、仏教書を読みあさった。他には成長の家の谷口氏が書いた生命の実相も立ち読みしたりしていたものの、この時成長の家の思想がおおもとから流れていることは読んではいたはずだが、それ以上深くは学ばなかった。万教同根という思想には共感を覚えた。学んだというより、自分の中にあるぼんやりした理想を書物で具体的にしようとしていた。
増谷氏の本からは後世の大乗仏教によって脚色化された釈迦像ではなく、もっとリアルな知的考察で開けた部分があるという思いがそこで植え付けられた。
翻訳ではあったが古い経典を読み込んでいくうちに、仏教は智慧の道であるという言葉や、戒、定、慧という仏の3学のうち、智慧が最も重要であるとの句が頭にしみこんでいた。
ただ四諦と縁起をどれほど研究しても何も自分の心境に変化は起こらず、人生の解決にもならなかった。特に四諦は生が苦しみであるという苦観から出発しており、逆に私の人生観を暗いものにした。初期仏教は人を一時的に厭世的にしてしまう。これは仏教の欠点であると気づいたのはかなり後になってからである。
古い仏典の説話や教典の多くは当時かなり翻訳されており、図書館でむさぼり読んだ。自分は学者になるわけではないので、枝葉末節の字句解釈に振りまわされたくなかった。シッダールダ太子は菩提樹の下で何を悟ったのか。それが自分の課題だった。
多くの経典を読み、説話を読んでいったが、大乗仏教になると理解できない部分も多かった。
釈迦は最初四諦や縁起を悟った。それが悟りだといっていたものが、大乗仏教ではそんなものは小乗で。。。などという扱いで、大事なことはもっとあとで説かれたというのである。いかにも負け惜しみの混じった説明で不自然に感じられた。エリート仏教に対して大衆部が起こした反乱かと思った。
2500年もたてばどんなに立派な説でも迷信で埋め尽くされる。大乗仏教というのは初期の仏教とは趣を異にしており、これはシャカの説いたものではないと感じるようになった。実はこのことは後日ほぼ学説として存在していることを知った。江戸時代の富永仲基という町人学者が喝破していたのだ。彼の批判は的を得ている。
しかし日本では大乗仏教こそ釈迦の本旨であるということが先入観として確立していたため、小乗仏教と上座仏教の区別があいまいで、研究するためにはセイロンにまで行かなければならなかった。またかつての上座仏教が現存しているかは知る由もなかった。(今も現存している)
その後は時々流行になるニーチェなどの思想に傾倒した。訳本ではあったが当時出版されているニーチェの著作はほとんど目を通した。ニーチェはショーペンハウワーを通じて仏教思想、インド思想にも接触していて、間接的に影響を受けている。
今考えると永劫回帰の思想は東洋の輪廻思想の焼き直しと見られないこともない。
釈迦は瞑想による観方を変えるという方法によって、生老病死や輪廻といううんざりするような生存を解脱する方法を説いた。
生まれ変わり死に変わりが実際存在するとニーチェがいったわけではない。しかし、この瞬間が永劫にくりかえされるとしても、それを肯定して、その永劫回帰を俯瞰する視点に立つことですべてを肯定する、自分が「人」であるという視点を上から俯瞰する。
そのような視点に立つことを超人と呼び、自分自身を他者を見つめるように客観視する、死を小さな生理学的変化としてとらえる。そんな感覚もつことで、人間の感覚を救済しようとしようとしたと私は考えた。
この考え方は、一般のニーチェ解釈とは少し違うかもしれない。しかしニーチェほどの複雑な思想家が単純に神を死んだことにして優秀な「超人」を目指す思想を打ち立てたというのは解釈がイージーすぎる。権力への意思もまた同様。単純に権力を志向したとも思えなかった。しかしながら後年出口王仁三郎を学ぶに及んでニーチェの思想は力主体従になるのかなとも思えた。彼は兵士が戦争に向かう中で「力」を感じ、霊なるものを認めず、肉体の理性を強調した。
彼が長年研究してきたギリシャやキリストの神や預言者を使わず、ツアラツストラというペルシャ拝火教の創始者を著作の題材に選んだのは、東洋的な思想への接近を感じさせる。
ニーチェは神の死をこのペルシャの預言者の再臨に語らせた。
ツァラトゥストラはもともと世界には善神と悪神の対立があり、やがて善神が勝つという思想を広げた。ゾロアスターが聞いたら飛び上がって驚くだろう。神が死んだというのは哲学的な皮肉ではあるが、本来のツアラツストラなら絶対口にしない言葉だろう。彼は言葉をもてあそぶシニカルな哲学者として、ツアラツストラの口に神は死んだと語らせたのである。
ニーチェはこれを神話として、思想として理解して、この思想がすでに力を失っていると感じて、新たに超人思想が人類を救うというストーリーを作った。
これは仏教と対比させるとわかりやすい。
初期の仏教徒は覚者を目指して修行する。この修行者は菩薩とも呼ばれ仏陀(覚者)になるために、捨て身で善行を行う存在とされている。自分の悟りを後にしても人を救うといわれている。
烏合の衆から覚者になる路程で菩薩は命がけで修行する。このプロセスは人間が動物と超人の間に張り渡された綱渡り師であるのと似ていないだろうか。
そしてツアラトストラが説いた人間の三様の変化は価値観への態度の変化を現している。最初は道徳的、次に道徳をものともしない力で自分の価値観を創造する、最後は子供のように世界と戯れる。
これは禅の奥義に達したと言われる明治の剣聖山岡鉄舟が示した「猫の妙術」とそっくりで 、ニーチェが意識しないで禅仏教の思想に近づいていたことが感じられた。同じように感じて下記のように訳した者もいたらしい。
如是経 序品 40-41 (登張竹風 1921年訳) | 聞け、われ汝等に超人(佛)を說かん。/超人(佛)は地の意義なり。汝等希くば、超人(佛)は地の意義なることを欲するところあれ。 |
最近ニーチェの思想がやさしく意訳されるとベストセラーになったが当時私の中ではすでにベストセラーであった。
しかしニーチェを読み、ニーチェの思想を心身に満しても虚無感は解消されなかった。むしろ絶望的になった。ニーチェは学者的に三様の変化や超人、力への意思、永劫回帰などという思想を提示したが、それでいったい何人が満ち足りた気分になっただろう。
ニーチェは物事を異なった視点から見ることが得意であったため、なるほどと思うものもあり、人間心理の考察は鋭かった。認識の考察も、ヘーゲルやカントといった自分たちが作りだした概念を理解させるのではなく、短文・・・アフォリズムで表現する手際が良かった。おそらく彼が古代ギリシャの研究で獲得した智慧が流れ込んでいるのだろうと思われた。悲劇の誕生は彼の出世作であるが、かれのギリシャ研究の総括でもあろう。かれはここを力点として自らにしみこんだキリスト教をあぶり出した。彼は牧師の子供だったのである。
原始仏教の謎を読み解くことができず、かといってニーチェで限界を感じながらアッというも間に大学時代は過ぎ去った。振り返ればほとんど無益に過ぎ去った4年間であり、今考えれば両親に対してもうし分けないことをしたと思っている。
当時自分はまだ探求者であり、絵にすればぼろをまとって各国を放浪する一種の乞食であった。
縁がなければ良師には巡り合わぬとは言ったが、たぶん良縁はあったのだが気づかなかったのだろう。
それは合気道との接点であった。
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