再度歴史を考察する。
天皇は神武天皇から始まるという。
しかし,じつはずっとその前から天皇制は続いていたという。
たとえば出口王仁三郎は、ニニギノミコトが降臨した時期について、『日本書紀』巻第三(神武紀)の、神武天皇即位年より179万2470余年前という記述を正しいものとしている。
つまり太古文明が存在したというのが、わが国の歴史の根底にある。
明治維新にはこの認識はなかった。
古事記と日本初期には神武以前神々の記述の間の歴史が抜けている。
大化の改新、明治維新などには偽史と断じて捨てられた呼ばれるものにはこれが何十代も記されている。
アジアというのは葦原から転化したもので、アジア大陸はもともとヤマトの神々が統治していたという歴史に連なる。
今はまだ公式には反発をかうためにいえない。もともとは日本の皇室、天皇が統治すべきアジアであるなんていえば、また大騒ぎになるだろう。
ところが出口王仁三郎の文献、竹内文書、契丹古記などにはそれを思わせる記述がある。
スサノオノミコトが大陸に降臨した記述は日本書紀にもある。一説には牛頭山(白頭?)山頂に降臨したといわれている。檀君神話との共通点が指摘されている。
わが国の秘教解釈はこうである。
もともとアジアは日本として神々の支配下にあった。その神々とはスサノオの一族であり、桓雄とほぼ同一視される。牛頭神はスサノオである。
アジアにはしたがって日本人と民族的に近い人間もいる。ところが人心の荒廃とそれに起因する度重なる天変地異とにより、日本の神々の力が弱まり西からの民族に支配を許した。この西からの民族はやがて漢を形成する。漢民族である。
殷周革命はその分岐点でもある。孔子などは周の文化を真似て儒教を広めたが、周の文化はもともと殷から引き継いだものが多い。また殷の紂王を狂わせるために九尾の狐の化身ともいえる女性を紂王のそばめに送ったがこれは周の女スパイであったという。
この民族は半島にも繁殖し、日本の朝廷にも入り込む。蘇我氏は史上初、漢人を使って天皇を殺害する。この頃すでに漢人がいろいろ悪巧みしていたことが日本書記にみられる。
漢民族と漢人が違うとの説があるが、漢人側に後漢の末という伝説もあるらしい。
殷の伝統は長男と箕子に引き継がれ、箕子は朝鮮国を築いた。これが箕子朝鮮伝説である。周に封じられたというが、実際には周とは手を切ったといわれている。
契丹古伝によれば箕子には子がなく、日本から遠征してきた皇子を後継者にしたという。
これが事実であるとすれば、朝鮮韓国は日本と同族のものも少なくない。日本が朝鮮へ遠征しようとする背景には、太古の因縁や伝承があったとも思われる。日本に都合の良い話だが、太古史が明らかになればアジアは日本ものであるということになる。
蘇我氏はもとは日本の豪族だが、蘇我氏のルーツ竹内家の文書の系図では途中から蘇我の満智に子がなく養子をとっている韓子である、そしてその子が高麗など大陸をあらわす名前が見られるようになる。
かくして日本の朝廷は大陸人が血縁に入り込み姻戚関係を広げ天皇陛下をサポートする物部氏を排除して仏教思想を導入した。
蘇我氏は飛鳥寺の儀式で百済の服を着て主席している。飛鳥寺はほとんど百済人が建てたものであり、蘇我氏はそのボスであったとも言われている。
かくして仏教は導入され、そのことで天皇の影響力も弱められた。天皇陛下の影響力というのは信仰により強められる。神道の体系の中でなければ天皇陛下が天地の祭の中心であることが説明理解できない。理解できなければ尊敬は薄れる。
現代人にとっては神道も仏教も宗教と言うくくりでよく理解できないだろうが、日本が神道の国ということは日本人の生活習慣や精神構造にも関係している。神道には特殊な言語学があり、これが歴史や地理、科学と関連している。古事記もこの言語学で別様に理解できるとも言う。
聖徳太子は皇族であったが物部討伐に加わった。
これは彼がまだ若く、蘇我氏の影響を受けていたせいであろうと思われる。後日彼は蘇我氏から離反するようになり蘇我氏に殺害されたのではないかという説もある。
スターウォーズにおけるアナキン・スカイウォーカーのような存在が聖徳太子であったといえる。
17条の憲法も三宝に帰依すべしというところが詔よりも先にきている。日本人が帰依すべきは天の神、地の神であり、仏ではない。また天皇の権威は神に基くが、仏に基くものではない。
天皇の詔に従えといってもそれは憲法による命令となり「自ずから」ではなく「ネバならぬ」となる。つまり天皇陛下への奉公が自発的なものでなく義務になってしまう。
つまり17条の憲法は日本の神道信仰による天皇体制への楔となったのである。
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