労働と搾取の言葉が唐突に何の前触れもなく使われる。
事実だから。
しかしわれわれは労働を仕事に変え、搾取を奉還にする。
資本主義の司祭は資本家であり、究極の目的はかねである。
しかしながら、われわれは天皇陛下を司祭として究極の目的を神の意志の実現としている。
人間はカミにとっていわば宇宙の結晶である。カミはこの心身に宇宙の秘密を書き込み、結晶化した。ゆえに小宇宙という。更に大宇宙たるカミとの合一が可能な存在として人間を作った。
高等宗教の教義にはどこかしらこれに通じるものがある。
日本の神道にはあらゆる宗教のエッセンスが存在している。多神教であると同時に一神教的な存在である。
中古においていくつかの説があったが、出口王仁三郎において集大成されている。
彼は特異な霊感と優れた学識、記憶力で古今東西の思想を集積し、神道の思想も集大成した。
だが、それは明治維新に形成された神道とはいささか違った。
それが弾圧の原因でもあった。
明治の政治家はどちらかというと日本国を世界に冠たらしめるために天皇の権威を利用した。彼らにとっては天皇よりも国家が上にあり、その国家というのは明治の政治家がコントロールするものだった。
昭和に入ると明治の元老たちがなくなり、天皇は憲法に拘束されたまま政治への関与を一定程度規制されていた。そのため、議会や軍人が自分たちの主張をぶつけ合い、政府をコントロールが出来なくなっていた。
天皇陛下に統帥権のある軍部のはずだったが、天皇陛下のおっしゃることが実行できなかった。陛下は元老亡き後手足を失ったように軍や議会の紛糾に悩ましい報告をきかなければならなかった。
この時の問題点は、真の問題は陛下が立憲的に対処せざるを得ないような国政の構造にあった。そして、そのような国政を作ったのは、明治の政治家たちだった。
陛下の意思がそのまま軍部に反映されれば、国際連盟の脱退はなく、中国戦線の拡大もなかった。
陛下は一見普通の人に見えるようであるが、その最終的な判断には神意が働くようになっており、その時代時代に適切な判断を下される。
それは上から押さえつけるようなものではなく、鏡のごとく、国民の意志を反映される。
ゆえに今上天皇陛下は民主主義的に立憲的に処せられている。
国民がそうしたいといい、陛下はそれを映し出し、ともに統治される。
ジャン・ジャック・ルソーは、かの有名な『社会契約論』で、
「人もし随意に祖国を選べというなら、君主と人民の間に利害関係の対立のない国を選ぶ。自分は君民共治を理想とするが、そのようなものが地上に存在するはずもないだろう。したがって自分は止むを得ず民主主義を選ぶのである」
ルソーがありえないといった国がここにある。
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