神様へのお供え。
お金を要求されるということがあります。
しかしそれは神に届くのでしょうか。
最も良い、神への供え物とはなんなのでしょう。
それは『自分の精神』です。
”自分は今日一日生きてこんなことを感じた”
”こんなことに気がついた”
そういうことを、神に向かって表明することです。
物質的なものではありません。
霊的世界に物質は届きませんし、価値がない。
この世で価値あるものは、この世での道具に過ぎないのです。
ですからそれを神に供えることはできません。
神とは存在の全てのことです。
そして人間は神とつながっています。
大事なのは精神のつながりを強めることです。
もし神と自分とのをつながりを強める手助けをしてくれる人がいたら、
その人にはこの世での感謝のあらわれとして、この世で役にたつ物をわたしてください。
そうしてその人がこの世で生きる助けをすることは神に対する感謝の表明になるでしょう。
この世界での経験を通して精神を拡張する。
それこそがこの人生の本当に意義のあること。
「人間がお互いに精神の拡張の影響を与え合って生きているのを見て楽しみたい」
これが神の全創造世界への思い。
そう、陽気ぐらし。
『人間が陽気暮らしをして共に楽しんでいる姿を見て、神も共に楽しみたい』
と語られる神の意思の本当の意味です。
これが真意です。
ですので。
自分が感じたことを表明してください。
経験して成長したことを伝えてください。
そのための対象が霊的な場所、つまり教会やお寺や神社です。
そのような場所では自分の精神を開いて、対話するんです。
祈りの場は、この世界での物質的な願い事をする場所ではありません。
それは願ったところで実現しません。
祈りとは自分の精神をオープンにすることです。
また、教会やお寺や神社などでなくても自分を表明することはできます。
どこでも大丈夫です。
場所は関係ありません。
精神を開けば、あなたがいるところが神聖な場所になります。
それから怒りや嘆きは供えられません。
怒りや嘆きを生じさせるように見えるものを良く感じて、そこに何があるか掴んでください。
心ない人がかける言葉に怒っているかもしれない。
理解してもらえないと嘆いているかもしれない。
それらは、みな、それを通して経験する機会が与えられているのです。
気がつくために起こっているのです。
なぜならば、この世界の実相は『かたちにならないもの』だからです。
実相がかたちにならないのなら、あなたが感じている感情も本来かたちにならないもの。
それそのものには仮の姿しかなく、それを通していかに経験し精神を広げるかという意味しかないのです。
そこに本来の喜びがあります。
不変の真実があります。
これが、
『心ひとつ我が理』
の意味です。
これに気がつけば、神に喜びを捧げることができます。
それこそが最高のお供えです。
それは一生懸命に生きている自分自身を癒し、慰め、勇気づける道でもあるのです。