おばあさま、中山みきの話をします。
おばあさまの話は喩えなのよね。
だから少し聞いただけではなんのことなのかわからない。
おばあさまが書き遺した『書き物』もそう。
「おふでさき」と呼ばれているわね。
喩えであらわされているの。
だからすごく難しい。
飯降のおじいさまの言葉も超絶難解ね。
あれを言葉から解釈しようとしても無理よ。
何通りも解釈が生じて、どうとでも言えてしまうから。
で、その喩え話ね。
何をあらわしているか。
それは人の心のこと。
大工とか棟梁と言っても、本当の言いたいことはかたちある世界のことではない。
掛詞(かけことば)のようなものとも言えるわね。
この世界のことのように見せて、実は真の意味が隠されているというような。
神の国は心を通してのみ理解できる。
心がそれぞれにあるように見えるのがこの世界というもの。
心は精神世界につながる私たちの本質。
この世界に生きる私たちの悩みは突き詰めると人間関係の悩みになります。
どれだけ複雑に見えてもそれしかないんです。
この世界を語るということは、人間を人間たらしめている心について語ることになる。
科学も量子論に至ってそうなりましたね。
哲学、科学、宗教は存在の本質を問うという意味で同じことを見つめている、ということを私たちは理解するようになった。
知覚の領域を越える世界のこと。
どの学問も、領域も最後はそこに行き当たる。
それが私たちの真実です。
知覚とは、
「目で見える」
「手で触れられる」
「音として聴こえる」
「味がする」
「匂いがする」
そのような感覚のこと。
そのような感覚は身体的なもので、身体には脳も含まれます。
心は脳の働きのことではないんです。
心は知覚では捉えられない。
だから喩えにして話をしたのね。
人間のあざなさというのは、
知覚できない精神をかたちあるものにしたいと願うこと。
知覚したいと望んでしまうのよね。
深層心理にある『虚無の思念』といったところね。
それがおばあさまが語った『ほこり』よ。
ほこりは道徳的な悪のことではない、と理解するのがおすすめ。
ご存知かもしれないけど。
東アジアで道徳といえば儒教道徳のこと。
『儒教』という言葉すら出てこないくらい社会に馴染んでしまったけど、儒教はこの世界の真実をあらわしているものではない。
孔子が自分の幻想を投影して作った考えで、それが集団的自我の中に溶けこんでしまったものなの。
『集団的自我』は『虚無の思念』をもたらす私たちの無意識。
儒教的思考の何がまずいって、知覚の世界の中に心を閉じ込めてしまうのね。
この世界の真実は『大いなるひとつ』なのに、この世界を分離したものだと定義するから。
人を精神の牢獄に閉じ込めるようなもの。
この世界における差別思想のもとであり、それがもたらす人々の精神の混乱は『儒毒』とも言われる。
日本では朱子学として江戸時代に武士たちから一般社会に広まった。
おばあさまが、
「このみちに学問いらん」
と言ったのは有名な話よね。
この『学問』とは、
「悟りには特別の教養は必要ない」
という意味と、
「世間一般の学問だった朱子学の否定」
という意味があるの。
このことを理解していた人は少なかった。
というか大半の人は理解できないのね、今も。
だから、儒教道徳とおばあさまの教えを混ぜてしまって、しかもそれに気がつかないでいるのよ。
もうそろそろ目覚めてもいいと思う。
蛇足だけれど、
そもそも「おやさま」という呼び方も儒教的な感じが、私にはするわ。
おばあさまのもとに集まって来た人たちは、親しみを込めて
「おやさん」
と呼んでいた。
「おとうさん」「おかあさん」と親を呼ぶように。
『おやさん』
ね。
自然とそうなってたのよ。
『おやさま』
なんてね。
改まってね。
ちょっとよそよそしい感じ。
まあ、
「お父さま」「お母さま」
と呼ぶのが自然だという人もあるかもしれないから好きにすればいいけどね。
誰をどう呼ぶかなんて、それぞれのことよね。
『ここはこの世の極楽』
「ここ」とは
心のこと。
今ここにいて、
感じている、
『私たちの心』
そのなかに極楽、すなわち最高の幸せはある。
それをおばあさまーー中山みきは、教えてくれたのね。
儒教が教える「目上の人」として、おばあさまのことを感じなければならないのではないわ。
あのころ、みんなが「おやさん」と言って慕ったように。
あなたが心の中で感じればいい。
それをおばあさまも望んでいるのよ。