この世の真実とは仮想現実であるということ。
それを認められれば終了なんですが、なかなかそうはいかない。
この世界が現実だと感じさせる仕掛けがありますからね。
この世界が仮想だと思うと生きる意味がないと感じる人もいるかもしれません。
それは身体の自分が思うことです。
身体の自分には脳も含まれます。
五感で感じられるものすべてが仮想だとすると身体は精神に従属するものということになります。
それは嫌なわけです。
わがままに生きられなくなる。
自分の好きなことをして、楽しく生きたい。
それが身体の自分の思うこと。
しかし、その身体の自由は時間によって制限がかけられています。
肉体の寿命です。
肉体には寿命があります。
それを知らない人はいない。
ですが、気ままに生きたい身体は本体である精神にそれと気が付かせないようにしています。
楽しいことが続くぞと。
考えたり気がついたりしようとすることをやめて、快楽を追えと。
そういうふうに誘惑してくるのです。
そして思い込みの中に誘い込んでその中で生きさせようとします。
私たちはこの囲い込みの中に生きています。
ですから真実に気がつけない。
身体の意思は恐怖で煽ります。
真実は怖いぞと。
だから近づくなと。
楽しいことの中に生きていれば考えずに済むぞと。
誘惑し惑わし続けます。
目をつぶっていれば楽だぞ。
考えるな。
そのような誘惑です。
このような身体の意識というものは人類が共有するものです。
真実はいつも闇の中。
厚い雲で覆われているかのように。
光は届かないし、広まることもない。
いっとき誰かが真実を語ったとしても、しばらくすると変質し、改竄され、歪んで伝わる。
多くの人はそれを受け入れ、信じ、拡大する。
そして真実は一筋の光のように世界の片隅には語り継がれる。
人類はそのように歩んで来たわけです。
文明はそうして発展して来たのです。
でもそれも大きな区切りが近づいているのかもしれない。
昔は「十年ひと昔」と言いました。
十年で流行がまわり、時代が進んでいくという実感があったのです。
70年代とか80年代とかいう言葉が表しています。
2010年以降この言い方は自然と消えていきました。
実際の時間の流れと合わなくなったからです。
時間の進行の速度は一定ではないわけです。
ここにもこの世界が仮想だという証拠があります。
本当の現実は普遍であり変化しないもの。
それは精神生命、つまり神の世界です。
変化し続けるこの世は仮想現実。
では自分はどこから来たのか?
何をしに来たのか?
それに気がつくのが救いです。
自分の内側を、聖域なく見る必要があります。
答えはすべて自分の内側にあります。
そしてそれは外の世界に投影されることで認識できるようになっています。
知覚できる世界は自分自身なのです。
怖がることはない。
だって自分ですから。
そして仮想現実ということは、本当は何も起こっていないということです。
それに気がつくとまず慌てたり自己嫌悪におちいったりすることは激減します。
だってその必要がありませんから。
自分の内側に気がつく。
それが救いの第一歩であり、すべてです。