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人間を越え、覚りに到達する人のブログ

死から真実と安らぎを見いだす

身体がなくなっても人は居る。
ずっと居る。
そことか、ここではなく、居る。
お別れではないんだよ。
その姿とのお別れではあるけどね。
その人とのお別れではない。
人間は一つだからね。
精神においてつながっていて、ひとつですから。
人間の生命の本質は精神。
この世界での生命の終わり。
いわゆる死。
そこにはカタチある苦楽を共有できなくなった悲しさはあります。
悲しさはそのままにしておきましょう。
泣けるときは素直に泣く。
それも亡くなった人にしてあげられることのひとつです。
でも執着せず、この世界の真実を思い出すようにしましょう。
この世界の性質は『空』であるという真実。
般若心経の「色即是空、空即是色」、法華経の「無生法忍」です。
この世界を貫くものは無償の愛です。
神とは無償の愛の擬人化です。
愛によって全ては成立しています。
だから。
大切な友達が身体を失っても、一緒にいられる。
これを理解するのが心の平安です。
この認識ははこの世界はひとつだと理解することからしか生まれません。
大切な人はいつもそのままに居る。
楽しい時をありがとう。
これまでも、これからも。
そう思って身体を見送ってあげてください。
その子は消えてしまったわけじゃない。
また姿をかえてこの世界に生まれてきます。
これはフィクションではありません。
私たちには知覚できないだけです。
肉体の死は人間の死ではない。
肉体の死に見えるものは精神が見せる『今』というホログラムの終わりです。
この世界に生きてる私たちにはなぜそれがそのタイミングで起こるのかわからない。
知らされていないし、望んでも知ることはできない。
できることといったら、知覚を越えたものを感じとれるように意識を向けることだけです。
その中には悲しむということも含まれています。
私たちの国には自分自身のことを「無宗教です」と言う人が多いです。
でも身体の生命を失った人には手を合わせたり、祈りを捧げたり、思いを寄せたりしますよね。
それなら宗教心はあるんです。
宗教が組織的なものを指すことが多いですから、特定の教団に属していないということを言いたいのかもしれません。
本当に無宗教なら「弔う」ということもできません。
亡骸はゴミのように捨てるだけになるはずです。
弔いかたも民族にも宗教にもよります。
世界をどう見ているかによるわけです。
私たちの国は個々の立場は別にして仏教的な世界観を持った国だと言えます。
そしてそれが様々な思想や風土から来る肉体的理解とあいまってねじれを生じつつ今に至っています。

迷信を取り去り真実に目覚めること。
幸せとはこれを得ること。
この世界は私たちの心の投影です。
心から生じています。
さまざまな物はみな人間の手によって生まれています。
その元になるものは愛です。
巨大なエネルギーを持つ無償の愛。
いつも私たちはその中で生きています。
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