ある人が語った話。
わたくしたちの教祖、中山みき。
『教祖』と呼んでも『おやさま』と呼んでも『みきさん』と呼んでもよそよそしい。
ですので。
わたくしは『おばあさま』と呼ぶことにします。
おばあさまが繰り返し語った神の教え。
晩年のおばあさまは絶対なる存在のことを『をや』と呼んで教えました。
それはつまり『親』です。
神は人間の親のような存在だと教えた。
はじめは『神』と言って教えていたのね。
それが『月日』に変わり『をや』になっていった。
唯一なる神は人間とつながっていていつも見守っているから『をや』というのがぴったりだと思ったんでしょうね。
「子供に難儀さそう苦労さそうという親はいない」
これは本当に何度も言っていた。
神は親のようにいつも気にかけていると。
病気にせよ、生きる上での困難にせよ、みんな親心のあらわれ。
そうしたことをきっかけに霊的な生き方を選ぶように導こうとしていた。
おばあさまは本当にみんなの『親』だった。
おばあさまはなんでもお見通しで、集まり来る全ての人の心の拠り所でしたよ。
本当の親以上だったでしょうね。
どんな人でもおばあさまの前では素直だったんです。
だからおばあさまが息を引き取ったとき、おばあさまを慕う人たちはみな、この世の終わりが来たように嘆き悲しんだ。
死んだわけではないんだけど、それが理解出来なかったのね。
本当のおばあさまの教えを理解していた人はいたんでしょうかね。
みんな表面的なことしかわかってなかったんじゃないかしら。
身体の命は仮のものだと何度も教わったのにね。
おばあさまは本当に霊的な存在だった。
そして慈悲そのものだった。
おばあさまの教えはおばあさまの経験から語られることも多かったんです。
おばあさまのお生まれになられた前川家は裕福なお家でした。
そしておばあさまは御両親から大事に育てられた。
だからおばあさまにとっては「子供に難儀さそう苦労さそうという親はいない」というわけ。
全ての親がそのような姿なのではないのね。
親も人間。
それはそうよね。
たとえば生活に困るような家庭では、親にも余裕はない。
だから親子の間には軋轢が生まれることがある。
中には子供から搾取しようとする親もいる。
虐待する親もいる。
自分の自己実現の道具に使うとする親もいるし、いろんな親がいるものよね。
それもひとつの親心。
でも『をや』の心とは違う。
おばあさまが語る『人間の親としての神』と『普通の人間の親』は全く別のものです。
でも「天理教」の人たちはこれを区別せずに扱ってきましたね。
教会を置き、タテの関係で結び、それを親子になぞらえてもきましたよね。
先におばあさまの教えにつながっていたからと言ってその人が『理の親』などにはなりません。
そんなことはおばあさまはおっしゃらなかった。
『理の親』があるとすればそれはおばあさまであり、おばあさまが語られた元なる神のこと。
人間は神のもとにみな平等だというのがおばあさまの教え。
おばあさまがおっしゃらないことを、さもおっしゃったように語る人の本当に多いこと。
おばあさまがおっしゃられた『をや』である神は完全なる神であり、この世界の人間の親とは違う。
そのことを皆さまにお分かりいただきたいと思います。
完全なる神はひとときも私たちから離れず、私たちを満たしています。
『をや』である神はあなたがどんな様子でいようとも罰を与えたり見捨てたりはしない。
本当よ。
あなたはひとりではありません。
いつもおばあさまがそばにいて、元なる神の懐に抱かれているのだから。