現代の物理学は時間について、
「過去・現在・未来は同時に存在している」
とか、
「未来が過去に影響を及ぼす」
といった私たちの実感からは想像できない宇宙観を私たちに提示しています。
1905年にアインシュタインが提唱した相対性理論以降、人類の宇宙観はそれまでと全く異なる次元に突入しました。
量子物理学が明らかにしたこの宇宙の姿は、
「不確定であり、多元的に存在し、相互に影響しあう」
というようなもの。
にわかに理解しがたい理論です。
体感的な私たちの常識を越えています。
知覚では宇宙の真実を捉えられないということです。
天理教には本席が語った前生の因縁という教えがあります。
「いんねん逃れられん。みな生まれかわり伝え、先々いんねんわかる」(M27.7.29)
「いかなるいんねんも尽くし、運ぶ理によって果たす、切る、という理から思やんもせねばならん」(M30.10.5)
中山みきがこの世界での身体をなくしてからというもの病気は神からのメッセージと受け止めていた天理教の信者たちは、神の言葉の取次人と信じられていた本席に神からの言葉を求めました。
江戸末期は難病は、神の祟りや狐や狸が憑いたと信じられていたころですので当時の人々の心境からするとやむを得ないと思います。
『おさしづ』として残された文献を読むと、歯痛でも神の言葉を求めたとなっています。
現代のような医療がなかった時代は本当に大変だったとうかがえます。
今なら問題にならないような病気で人々は本当に苦しんでいた。
どうしたらこの苦しみから逃れられるのか。
なぜこのような苦しみが生じるのか。
それを人々は本席に投げかけたのです。
何度も何度も。
そして本席が達した結論が、
「前生の因縁」
でした。
一定の説得力があったと思われます。
ですが、これは結局中山みきが目指した救済から逸脱する方向に人々を導いてしまいました。
「いんねん」
という言葉を中山みきは用いていますが、それは「縁」という意味でのこと。
病気や困難の理由として用いてはいません。
本席が語った「いんねん」は因果応報であり、
「いま、ここ」
で救われるとした、中山みきの教えとは合い容れないのです。
人間が真実に救われるのは「心」です。
かたちのレベルで救われるかどうかは別問題です。
中山みきの心は完全なる自己肯定という悟りに達していたため、病気を直接癒すというレベルに達していたと想像できます。
真のマスターにのみ可能なことです。
そしてそれは真実の教えを理解すれば誰もが可能だという、人類平等を説いたのです。
この境地は達した人にしか理解し得ない。
中山みきが姿を消したとき大半の人々は、
「自ら悟る必要があり、それが人類全体の心の救済を実現する」
という心境には至っていなかったのです。
月並みな言い方ですが、
「時代が追いついていなかった」
といえます。
時空の宇宙に絶対時間は存在しない。
過去・現在・未来は同時に存在していて、言うなれば「いま、ここ」しかない。
それが時空の真実。
結果的に本席が語った宇宙観は身体から観測したもの…人間の思い込みでした。
神はこの時空の宇宙の外にあります。
そしてまた時空の宇宙の外は、いまここに存在します。
宇宙は真空の中からビッグ・バンによって始まったと言われていますが、その真空は今も存在しているということです。
かたちある世界に干渉しないのが神です。
神の顕現である存在は私たちの精神を通して心に働きかけています。
このかたちある世界は心の動きの結果です。
心が平和に導かれれば、結果であるかたちの世界にもその平和の影響が及びます。
ただし。
病気が平癒したり、お金が手に入ったり、自己実現したりするかどうかには直接関わりがありません。
あくまでも心が変わることによって、捉え方がかわり、結果に作用し世界が変わるということです。
本席は道徳心にあふれた人格者であり、人々を導いた宗教家として尊敬に値します。
ですが。
この宇宙の真実を知るには至っていなかったのです。
「尽くす、運ぶ」
という言葉は松村吉太郎らによって、教会本部への献金という理論に転用されました。
このことによって教えは歪み、神の教えの名のもとに人々を困難に追い込んだ面が少なからずあります。
救われるためには金を出す必要があると言ったのですから。
そのようなことを中山みきは断じて言っていません。
神は赦しを説くものであり、何ものにも怒りを向けるべきではありませんが、
救済の教えを「事業」のように扱い、人の弱みにつけ込んだことは許し難いと感じます。