お茶の世界には『見立て』という言葉があります。
これは、私達が日常的に使っている『見立てる』という言葉とは少し違ってい
て、「物を本来の有るべき姿ではなく、別の物としてみる」という物の見方を言います。
この『見立て』という言葉は、本来は漢詩や和歌の技法からきた文芸の用語だそうですが、千利休はその文芸の心を取り入れ、日常の様々な生活用品を茶道具として見立てました。
例えば、水筒として使っていた瓢箪を花入れに・・・というようなことです。
私は、この『見立て』という言葉がとても好きです。
その辺に転がっているただの瓢箪でも、花入れとして見立て、野の花を一輪挿して床(とこ)に掛けるだけで茶室の趣は全く変わりますし、もしかしたら、本来の物以上の効果を生み出してくれる様な気もします。
と言っても、私には利休さんの様な審美眼は全くありません。
それでも、一見、ガラクタに見える物でも「これ、何かに使えないかしら・・・?」と考えることは楽しいものです。
私は、師事していた先生が亡くなられたため、お茶の世界から身を退きました。
それ以来、茶道具は仕舞い込んだままだったのですが、最近になって引っ張りだし、お茶以外の用途に使うことが多くなりました。
(これも一種の見立てと言えるでしょう)
上の写真は抹茶茶碗ですが、男性や若い人はこのままご飯茶碗として使えますし、また、女性や高齢者にとっては小さなどんぶりとしてピッタリです。
普通のどんぶりでは重すぎたり、大きすぎたりするときに、抹茶茶碗は掌にぽっこりと収まって具合がいいのです。
抹茶茶碗は種類も多く、その日の気分で色絵の物などを選ぶと、ただのお茶漬けが高級感溢れる料理に変身するような気がします。
私の持っている茶道具は、すべてがお稽古用で高価な物は一つもありません。
多分、リサイクルセンターに持ち込んだとしても二束三文でしょう。
もし、私がいなくなれば、ただのガラクタとして処分されるはず。 (>_<)
だから、せめて自分が元気なうちは、茶道具を生活用品に見立てて身の回りに置き、日常的に使っていきたいと思っています。
(若い頃から茶道は私の心を癒やしてくれましたから)