時には優しさを捨てて、無視する厳しさも必要
他人との境界線がなく共感性が高い方へ
●身内がガッカリして、ため息をついているとき
●身内が怒鳴られているとき
など…
自分まで心が痛んでくる事はないだろうか…?
この状況を解決したいがため、どうしたの?と声をかけて働きかけると…
結果
●ため息をついた相手から、面倒事を押しつけられ犠牲を強要されたり
●怒鳴っている相手から、怒鳴られている相手の罪や責任を押しつけられて自分が身代わりになって苦しむハメになったり
…と。
相手によっては「優しさが自分に害をもたらす」ケースもある。
心の本によると…
相手に泣き落としをしたり威圧をすることで罪悪感をあおり「己の要求を通す人間」もいるらしい。
どうやら私は、何度も相手の「罠」にハマってきたようだ…。
身内であればこそ、
無意識に相手が可哀想に感じてしまったり、何もしない自分に罪悪感を感じてしまう事もあるかもしれない…。
しかし 犠牲を強要されて人生や幸せに危害が及ぶ場合や、他人の罪や責任を押しつけられ身代わりになって苦しむ場合は、
相手がどうあったとしても、心を鬼にして「無視する厳しさも必要」という事を伝えたい。
自分を愛しましょう・大切にしましょうと言われているけれど…できない支配
トラウマ体験がある方に向けて、
「自分を愛しましょう」
「自分を大切にしましょう」
という言葉がある。
すんなりできてしまう方もいるのかもしれないが、
私は自分を愛したくても愛せない、
自分を大切にしたくても、大切にできない人間だった。
自分を愛そうと思って、言われている通りに「自分の良い所」や「優しい言葉がけや共感」をノートに書き出すと…
必ず罪悪感が湧いてくる。
「そんな所はない!お前はダメな人間だ!愛される価値のない人間だ!謙虚になれ!」と言う反対意見が脳内に響く…。
自分を大切にしようと思っても…、無意識に他人の評価や気持ちの方へ引っ張られて、他人中心に生きてしまう…。
そんな結果になっていた。
なぜ、できないんだろう…?
それは、過去の加害者からの支配だった。
「自分を肯定する事への禁止」
「自分を愛する事への禁止」
「自分を評価する事への禁止」
「自分が対等になる事への禁止」
「自分を優先する事への禁止」
しかし、それらは我慢して受け入れなくてもよかった。
自分を肯定し愛する事も、味方になってあげる事も、褒めてあげる事も、人間として対等に自信を持って生きる事も、決して悪い事ではない。
と、ある心の本を見てから知った。
私と同じように、他人ばかりに肯定や理解や優しさを与えて、自分へは冷たい言葉を投げかけ無意識に差別している方へ。
自分の味方になって共感してあげる事も、自分の良さを認める事も、ありのままの自分に自信を持って生きる事も決して悪い事ではない。
他人と同様、自分も大切にする事は「決して傲慢な事ではないんだよ」と伝えたい。
子供にマウントする親について考えてみた
私は10歳前後の子供時代から、親のマウントを疑問を感じる事もなく受け入れてきた。
ある時を堺に、諦めされられたと言ってもいいかもしれない。
●小学校で辛い事があって話を聞いてもらいたくても聞いてもらえず、「親の過去の苦労自慢」に話をすり替えられた
●努力しても「努力よりも結果だ」と言われた
●理不尽な一方的な命令に我慢ならず反発すると、「くやしかったら親と同じ肩書を得て稼いでみろ!」と言われた
●中学生の時に好きな事を仕事にしたいと言った時に、「どうせ失敗する!お前は無能だから、この仕事を選べ」と言われ強要された
その結果、親の望みどおりの「人に甘えられない、自分を愛せない、自信のない、自己否定して人生に希望も持てず生きる私」が出来上がってしまった訳だが…。
心理関係の本を読むうちに、ある気づきを得るようになった。
「ああ!親が正しかったのではなく、親は未熟だったんだな」と。
何十年もかけて、ようやく親の強い洗脳から抜ける事ができた。
世の中には「親が正しい。子供は親の言う事を聞け」という言葉があるが…
全ての親が、年を重ねているからといって、子供よりも成熟し愛があり良心があり理解力があり謙虚さがあり人生の成功の秘訣を知っている訳ではない。
「そもそも、小学生の子供相手に一切話すら聞かず苦労自慢をして威張ったり、努力を一切褒めなかったり、肩書や収入で威張り反発できない子供に脅迫して要求を押しつけたり、夢や可能性をぶち壊し生きる意味が感じられない人生を歩ませる」人間は、決して優しさも愛も良心も謙虚さもない人間だろう。
「子供にマウントする親は、子供を相手にし張り合う事しかできない未熟な人間だった」
「世の中で言われている親が正しいという言葉は、全ての親に当てはまるものではなかった」
これは、私の頭に突然降ってきた 気づきだった
世の中の教えに従い、親の冷たい言動も正しい愛情として受け入れながら生きる。
親の冷たい言動に対して、怒りや憎しみを感じる自分に罪悪感を感じて苦しみながら生きる。
そんな方々へ…。
私の気づきが、心の救いになるきっかけになってもらえれば幸いです。
「毒親になるか・ならないかの分かれ道」について考えてみました
毒親になるか・ならないかは「暴力や暴言や脅迫や否定で傷つけた親を、許したかどうか」でも、決まるのではないかと思いました。
●親に対し許した人
「親のした行為は、自分にとって苦しかったけど正しい愛であり教育なんだ。苦しかったけれども親は悪くない」
と思った人は、親を肯定しているがゆえに子供へ親のような言動をしてしまう毒親になる可能性が高いと思います。
●親に対し許さなかった人
「親のした行為は、客観的に見て正しい愛でも教育でもなかった。たとえ親であっても人として許されない行為だ!許さない。自分は味わった苦しみや悲しみは痛いほど分かるから、子供には味わせないようにしよう」
と思った人は、親に対し否定しているけれども子供や被害者に対して共感や優しさを与えられる人間になれるでしょう。
「親を許す行為は心が広く美しい行為」とみなされる事もありますが、暴力や暴言や脅迫や否定の正当化につながる危険性も秘めています。
そして傷つけられて悲しんだ自分に向き合う事もなく、一生無意識に自分を否定する日々が続いて行くでしょう。
「どんな親であっても許すべきだ」と教えられてきた人も多いと思いますが、
私はたとえ親であっても「暴力や暴言や脅迫などの行為」は犯罪と捉え、許さなくて良いと思います。
自分の尊厳や善悪を理解できる人間性を守るためにも
見返りのない愛を与えましょうという言葉について
「見返りのない愛を与えましょう」という言葉があります。その言葉は人間関係において平和や愛をもたらす良いものであるかもしれません。
しかし、愛は「全ての人」に向けて良いものでしょうか?
私は、今まで何の疑問も持たずに「私に愛情や優しさを返してくれない家族や友人」にまで優しさを与えてきました。
家族だからという理由で。友人だからという理由で。
その結果…
●優しさを与えても、毎回相手から不機嫌をぶつけられる
●優しさを与えても、一切感謝される事はなく当たり前の事にされて、さらなる犠牲(相手に与える事)を要求される
●優しさを利用されて、家族から脅迫や威圧や泣き落としで罪悪感を煽られ、要求を押し付けられる
●自分が辛い時は、一切助けてもらえず無視される。優しい言葉すらかけてもらえない。
という、自分だけが苦しみ損する…そんな辛い関わりになっていました。
相手が「良心や愛情や対等性を持った人」であれば、見返りない愛情を与えても良いかもしれません。
しかし、他人の優しさや愛情を利用し、己の欲しか考えていない人間には与えるのはやめた方が良いでしょう。
その美しい言葉を真っ直ぐに受け取り不幸にならないためにも… 正しい言葉を付け足すべきではないでしょうか?
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