(思考か飛んだ内容)
初めてボッティチェリと出会ったのは
京都で開催されたイタリア・ルネッサンス美術展
🔗初めて西洋美術を鑑賞した美術館。中学生3年のころ
美術室の図録でお会いしたボッティチェリに傾倒
受験中でしたがぜったい行きたい!と言って母親と一緒に大阪から京都まで
おそらく絵画鑑賞も初めてだったと思う
カタログは実家にあります。
本当にお美しい
その後ウフッツィ美術館(約10回訪問)
等、一番お会いしている絵画です。
貸し出しが多いのかな
今回出展されたボッティチェリ(二点は模写です)
こちらはミュンヘン地元東駅から
今回のイタリアは電車で入ります。
Forli駅前にロセッテイがお出迎え
炎天下の中、バスと歩きで紆余曲折しつつ、なんと美術館は時間待ちもありましたが
Forli駅前にロセッテイがお出迎え
炎天下の中、バスと歩きで紆余曲折しつつ、なんと美術館は時間待ちもありましたが
入場。素晴らしいルネッサンス期の絵画もありましたが、すぐ目についたあなた様
いきなり中央で再会
再会。(ラファエル前派も好きなのですが・・後ろに素晴らしいバーンジョーンズ・・)
光が入るので横から撮影
好きな望遠風景
昔、美術の先生が鑑賞する時には足元に注目するとおっしゃっていた
私は足元にこだわらいが
ボッテチェリの足元が好き…必ず注目
そして、レースの透け感は写真では伝わらないが、絵の前に立つとその美しさに目眩がしそうになる。
有名な『プリマヴェーラ』の絵はその最大の作品。メルキュールの視線の先にこの絵が掲げられたという説を聞くと、嬉しさのあまり卒倒しそうです
宝塚で開催されていた「ルネッサンスさろん」の講義の中で新プラトン主義の説明を皆がうっとりされていた事を思い出した
後方のバーンジョーンズも鑑賞して
名残惜しいけど他の部屋へ
この後、最大のラファエル前派の絵画に触れてトランス状態
またまとめられると良いな
↑(ちょっと横道にそれます)
最初に絵の飾られていた場所はカブール通り
リカルディ宮殿かな?
通った語学学校もその通りにあった。
今は引越ししてしまったけど、邸宅の中に学校があり、
自由参加の美術講座、教会訪問、美術散策など
楽しかった
最近フィレンツェに行き東洋人の中にイタリア人の先生がいらして撮影を頼まれた
日本人かとおもえば韓国人のグループですた。
ブディックでは語学学校の手提げ袋に以前の学校の名前がプリントされた方々に声をかけたけど
日本人ではなく…咄嗟にイタリア語も出なく、寂しい気持ちになった。
美術史の先生はとても大好きで
日本に帰ってもやりとりして旅行でフィレンツェに行き講座に参加したり
今はどうしていらっしゃるのかしら
この先生ともう1人のSassia先生
2人はfacebook、もう1人は震災の時に家🇮🇹に来なさいとメールが…。
懐かしい話しに飛んでしまったね
2021年5月に訪問したロベレートのボッティチェリ展
こちらでもお会いしていました。
- フィレンツェのウフィツィ美術館に所蔵されている絵画。
- 湖や海の風景を背景に、ミルトの冠をかぶった優雅な女性が描かれている。
- 左手に豪華な装飾が施された重いハルバードを持ち、右手でケンタウロスの髪を掴んでいる。
- ケンタウロスは弓と矢筒を持っているが、弓の弦は張られていない。
- 絵画は元々板に描かれていたが、現在はキャンバスに移されている。
- 1498年のメディチ家の財産目録に「Chamiloとサティロが描かれた絵」として記載されている。
- 一部の学者は、この女性を『エネイード』に登場する勇敢な戦士カミラと考えている。
- 1516年の目録では、正しくミネルヴァとケンタウロスとして記載されている。
- ミネルヴァは知恵の女神として描かれ、ケンタウロスは動物的な衝動を象徴
- 絵画の依頼者はロレンツォ・デ・メディチで、彼の息子ジョヴァンニ(後の教皇レオ10世)も関与している可能性がある。女神の衣装に絡み合ったダイヤモンドの指輪にあります。これらはロレンツォ・イル・マニフィコの特有の紋章であり、後に彼の息子ジョヴァンニ(後の教皇レオ10世)によっても使用されました。
- 絵画は1482年の結婚祝いとして制作されたと考えられている。この絵画が制作されたのは、メディチ家が長い間準備していた結婚式のためである可能性があります。具体的には、1482年7月19日に行われた、ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ(彼の従兄弟であり養子)と、ピオンビーノの領主ジャコポ3世・デッリ・アッピアーニ・ダラゴーナの娘セミラミデとの結婚式です。この日付は、絵画の制作が結婚式の贈り物として考えられるため、制作の最終期限となります。
- ボッティチェッリがシスティーナ礼拝堂のフレスコ画を描いた後に制作された可能性が高い。ボッティチェリがシスティーナ礼拝堂のフレスコ画制作の後にローマから戻った直後にこの絵画が制作されたことは、ケンタウロスと『コラの罰』や『モーセとアロンの石打ち』の悪魔的な人物像との間の様式的および形態的な類似点によって確認されます。これらは、サンドロが教皇シクストゥスの礼拝堂で制作した3つのフレスコ画の最後のものであり、ウフィツィ美術館のキャンバスの風景にも前兆が見られます。
今回訪問したラファエル前派の展覧会の図録
(かなりの重量の図録…これをカートに入れイタリアを回った
ミュンヘンで知り合った↑イタリア人友達の論文はロセッティ
…お茶に呼ばれて持参したとき息子ダヴィデのダンベル💪になった)
要約
この作品は、15世紀末にフィレンツェのヴィア・ラーガにあるロレンツォとジョヴァンニ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチの宮殿に所蔵されていたことが証明されています。その後、19世紀にカステッラの別荘に移され、パラッツォ・ピッティで再発見されたのはその世紀の終わり頃で、どうやらイギリスの画家ウィリアム・ブランデル・スペンスの指摘によるもののようです。それ以来、この作品は美的な熱狂と無限の批評的議論の源となっています。画家の他の神話的寓話と同様に、文学的、哲学的、政治的賛辞の解釈は数多く存在し、実際、それらの解釈は異なるニュアンスを持ちながらも、必ずしも互いに矛盾するものではありません。それは、サンドロや少し後の若きミケランジェロが自由に活動していた、ネオプラトニズムの思想に彩られた高い知的環境の文化的刺激の豊かさを捉えているからです。
この作品は、限られた鑑賞者のために制作され、その曖昧な意味は古い目録で女性の姿がカミッラ(1498年)やミネルヴァ(1516年)として識別されることに反映されています。流れる髪と透明な衣装をまとった女性は、ケンタウロスに対して優位な役割を果たし、驚きと苦しみをもって捕獲を受け入れます。彼女はパラスの明確な属性を持たず、目立つハルバードとメディチ家の象徴である絡み合ったリングが特徴です。儀式的な緊張感のある雰囲気は《ヴィーナスの誕生》と共通していますが、スタイルはローマ滞在時(1481-1482年)に近いです。
また改めて追加予定・・かも・・(備忘録)