今朝も寒かったよ😀
冬だからね〜
不幸中の幸いってあるでしょう
私ね、
大阪の堺市に古い知り合いがいてね
私が大阪のおばちゃんって
言ってる人なんだけどね
年は、、70歳前後かな
昔、大阪に仕事に行ってた時に
知り合ってね
今でもメールのやり取りを
してるんだけどね
病気の話しをしていて
彼女は元気だから健康診断を
(自営業だしね)
受けた事が無いって言ってたから
絶対に健康診断を受けた方がいいって
以前から言ってたんだけど
先週行ったら、、、
大腸検査で大腸癌が見つかってね
初期の初期
医師から大腸癌の赤ちゃんだと言われ
明日2日入院で内視鏡で
取るんだけどね
大腸検査までして良かったよね〜
不幸中の幸いだよ(^^)
では、、今日のランチは
カニ釜飯だよ
定食になっていて
クリームコロッケ付き
久しぶりに
クリームコロッケを食べたよ🤗
御馳走さまでした(^∇^)
真衣
いや〜 参りましたよ〜
昨日もなんだけどね
最近、眠りが浅いから
医師に処方されてる眠剤を使い
寝たのですが、、、
効きすぎなのか、、眠くで
シャキッとしないんだよね😅
頭が働かないんだよ〜
で、、今日は歴史こぼれ話は
休みますので、、ごめんなさいね
お昼はウザ子がアウトレットに
行きたいと言うから、、、
私は人混みが苦手だから
混雑する時間を避けて、、
ウザ子のお目当ての
アウトレットのフードコートにある
ステーキハウス88に
イモ吉とウザ子、私の3人で行きましたよ
私とマネージャーが先週に
行ったのは内緒でね😅
ここまでは先週の写メを使いましたが
今回はステーキのグラム数が違いますよ
デカいでしょう(笑)
だって、お腹空いてましたからね〜
今日は絶対に睡眠薬は使いません!
真衣
温泉に行きたいな(^^)
食べ放題に飲み放題
暫く行ってないよ、、、😢
では、、歴史こぼれ話の続きですよ。
浅野内匠頭と吉良上野介の
最初の出会いを書いて行くね😄
浅野内匠頭の祖父は
明君と言われていた事は書いたけど
赤穂藩2代藩主は若くして亡くなり
(浅野長友、、享年33歳)
3代藩主になったのが、、
忠臣蔵のドラマでは
清廉潔白な明君として出てくる
浅野内匠頭だよ(^^)
若き父親が亡くなり藩主の座についたのは
わずかに9歳の時なんだよ
母親も父親より早く亡くなってるから
両親の愛情は受けなかった
幼少期を過ごしてきたけど
祖父の代から仕えてる
優秀な家臣から支えられ成長していき
16歳の時には朝鮮通信使饗応役を
吉良上野介の指導で無事に
こなしてるんだよ
吉良上野介は42歳
江戸城内では顔を合わす事も
あっただろうけど
この朝鮮通信使饗応役の時から
吉良上野介と浅野内匠頭の関係は
始まっているんだよ、、、
更に次の年には、、、
勅使饗応役も浅野内匠頭は仰せつかり
指南役は吉良上野介
この時も何も問題なく
無事に役を全うしてるの。
そう、実は浅野内匠頭は
勅使饗応役の2回目に刃傷事件を
起こしてるんだよ😄
逆に言えば、、、ね
2回目までは赤穂藩浅野家と
吉良上野介の関係は良好だったと
言う事なんだよね
ますます、何故刃傷事件が
起きたのか?
謎は深まりませんか?
ちなみに、、、
この頃、(浅野内匠頭が18歳の頃)
幕府の評判は
少し我儘ではあるが家臣団をまとめ
若くして良くやってる、、
みたいなな感じだよ
これが、ガラリと変わるんだけどね
では、長くなるので
続くにしますね(^^)
真衣
昨夜は久しぶりに
眠剤を飲んで寝たら、、、
効きすぎで眠いよ🥱
でも、布団の中は天国だね〜
ここからは歴史こぼれ話ですよ
大体でいいから
吉良上野介の高家とは
大体わかったと思うけど、、、
官位って事もね
この度書いてる人は
後で必ず繋がってくるからね
徳川綱吉、吉良上野介、浅野内匠頭
今から何人か出てくるから
納得が行くと思うよ
では、吉良家の事を書いたから
次は浅野内匠頭の浅野家だね
浅野内匠頭は赤穂藩藩主なんだけど
本家は芸州浅野家なんだよ
広島に行くと大きな広島城があるでしょう
あれが浅野家の本家なんだよ
では、浅野家とは、、
そもそも尾張の織田家に使えていた
身分は低い家柄だったんだけど
(足軽組頭ぐらい)
織田信長の時代に浅野長勝と言う人が
跡取りがいなくて
親戚の杉原定利から
2人の養女に
とり嫁、とり婿を貰い
家の存続をする事にしたんだよ
その杉原家から来た養女が
"ねね(おね)" と"やや"
やがて"ねね, は豊臣秀吉になるなる
秀吉と結婚して
妹の“やや"に、
浅野長勝の甥御を養子にして
とり嫁、とり婿で
浅野家を存続させたんだよ
"やや" の旦那さんになる人の名前は
浅野長政
秀吉にとれば、義理の弟になるよね
秀吉が出世するたびに浅野長政も
出世するんだけど、、、
豊臣秀吉の政権下では
五奉行のひとりだよ、、
彼も忠臣蔵には間接的に関係あるからね
浅野長政は関ヶ原では東軍につき勝組
後継は2代将軍徳川秀忠の小姓となり
外様大名としては浅野家は
優遇されて後に芸州広島42万6千石の
大大名になるんだけど、、ね
これは、、関ヶ原の戦いの時に
または大阪冬の陣、夏の陣の時も
豊臣秀吉の妻である"ねね"(高台院)は
徳川家康の肩を持ち
豊臣子飼いの大名を徳川に有利な
動きをしたから
妹婿の浅野長政親子を
優遇してたんだよね(^◇^)
その浅野長政の三男が
色んな事で藩主が変わり
(この時期は取り潰しが多かった)
赤穂藩藩主として浅野長直が
(正妻は徳川家康の養女)
本家の分家として入城したんだよ
浅野内匠頭の祖父にあたる人で
この浅野長直が明君でね
新田開発、塩田開発
また赤穂の塩をブランド化したり
江戸市中の塩の90%は
赤穂の塩だったとか
藩も民も豊かな国作りをして
幕府の評価は藩主は民に慕われていて
よく家臣団をまとめていて
問題は何もない、、と
幕府が書いた古文書があるんだよ
これも、大事な事で後に繋がるからね
播州赤穂藩は徳川家と親戚、、、
藩主妻は養女とは言え
徳川家康の娘で
浅野内匠頭は徳川家康の義理と言え
血筋ではひ孫って事なんだよね(^_^)
これで、浅野内匠頭と吉良上野介の
家と言うのが少しは理解が
出来たらと言うけどね😁
では、長くなるので
また、続きにしますね(^◇^)
真衣
歴史こぼれ話の忠臣蔵の続きは
また、明日にしますね
少し付け加えるけど
私は吉良上野介が正しいとか
浅野内匠頭が悪いとか
言ってるのではなく
真実を書いていて
判断は読む人次第だから
最後まで読んで頂くと有り難いです。
今朝は鏡開きの事を少し書きましたが
朝は鏡餅を入れた
うどんを食べましたが、、、
夕飯後には善哉ですよ(^.^)
善哉の謂れはね
諸説ありますけど、、、
有力なのが、、一休さんなんだよ
善哉、、善哉
よきかな、、って読みますよね
善哉の(よきかな)意味なんだけどね
実に良い、素晴らしい、その通りなど
絶賛する意味だよね
お経の中でも
この意味で出てくるんだよ
それに昔は会議などで意見が出て
賛成する時に、、
善哉(よきかな)って
2回唱えたりする風習もあったんだよ
で、、、善哉の謂れね
一休禅師が大徳寺の住職から
餅が入った小豆汁を御馳走になった時に
「善哉此汁」 (よきかなこのしる)
と言った事から
餅入り小豆汁を善哉(ぜんざい)って
言う事になったんだよ(^O^)
では、忠臣蔵は明日に、、、
おやすみなさい😴
真衣