歴史こぼれ話、、
忠臣蔵の話しだったよね
少し復習ね
吉良上野介は高家で
高家とは旗本なんだんだけど
将軍の代理にもなれる
特別な家柄で
戦国時代に成り上がった家でなく
先祖は公家の流れだったり
守護職など名門だと書いたよね
吉良家は足利家の流れで
足利将軍家に跡取りが無ければ
吉良家から将軍を出すと言う
名門だったよね(^^)
浅野家は豊臣秀吉の妻の
ねね(寧々、おね)の
養父の家、、妹が養子を取り
取り嫁取り婿で秀吉の出世で
栄えた家だったよね、、、
忠臣蔵の事件(赤穂事件)
浅野内匠頭は勅使饗応役は2度目で
吉良上野介とは朝鮮通信使節団接待を
含めたら3度目の仕事だよね
では、先に進みますよ
そもそも、勅使、院使饗応役とは?
勅使とは天皇の使い、
院使とは上皇の使いでね
普通は一緒にくるんだよ
浅野内匠頭は勅使饗応役で
相役の伊達左京亮は院使饗応役
これも、後から関係してくるからね
で、、、勅使饗応役、院使饗応役
主な仕事は、、あはは🤣
会計なんだよ
名誉ある役なんだけど
要は、接待費を全て負担するのが
主な仕事なんだよ
今で言えば、、社長から
上客を接待するから
段取りは吉良がするから
経費は浅野な!、、自腹だからな!
なんて感じかな(笑)
だから、ドラマの忠臣蔵で
畳変えを教えてもらえなかったとか
接待料理で意地悪をされてたとか
あり得ないんだよ
経費なんだけど
勅使や院使が来る時には
単身では無く人数は
それなりに居るから
京都から江戸までの宿泊費だけでもね
しかも、経費には勅使や院使の
お土産代も(お金)含まれるんだよ
そう、幕府は全く経費は出さないよ
では、事件前の吉良上野介の行動ね
吉良上野介が正月に
将軍代理で天皇に挨拶をして
その返礼で勅使、院使が来るんだけどね
この赤穂事件の時も
吉良上野介ほ1月11日に江戸を発ち
28日に京都に到着
将軍代理として
早速宮中に参内して天皇に賀詞を言上
仙洞御所にて上皇に賀詞を言上
(仙洞御所は上皇の御殿)
それに関係各位に表敬訪問して
(公家など、、)
それぞれ全てに献上品を渡し
2月24日まで京都で忙しく
働いてるんだよ
2月24日に京都を発ち
29日に江戸に着いて
将軍に報告してるんだから
浅野内匠頭を虐める暇はないよね(笑)
松の廊下で切りつけれたのが
僅か2週間後だからね🤭
この吉良上野介の行動は
記録に残ってるから事実なんだよ
京都から江戸まで5日だから
かなりの急ぎ旅だったよね
これは後から書くけど
京都滞在も長いのも理由があるんだよ
では、長くなるので続きにするね
真衣
こういう論点もあるでー🤗
吉良さんは良い人だと思っています。
教養もあって好きです。
コメントありがとうございます😊
その説も調べてみましたよ
でも、この説は歴史学では
初出は前後なんですよね
しかも、元禄14年以前に
開発されていた幡豆郡の塩田は
本浜塩田は、本浜と白浜だけで
本浜塩田が所在する吉田村は
甘縄藩松平領で白浜塩田がある
富好外新田村は幕府領で
吉良領ではないんですよ(^^)
吉良領には塩田は無かったと言うのが
現実なんですよ。
この時代は吉良領は分散されていて
幡豆郡は複雑に大名領、旗本領などが
村ごとに混在してたから
赤穂藩のように大規模な塩田開発は
出来ないと言われていて
塩田原因説はフィクションだと
なってるんですよ(^^)
吉良上野介は文化人で
また後から書きますが、、、
茶道や和歌なども一流で
後で書く予定ですが赤穂事件前の
吉良上野介の評価など見ても
個人的には良い人だと思いますよ。
吉良上野介の領地を調べたら
分かると思いますが
本領は幡豆郡の一部と
岡山など沢山分散されていて
合わせて、、
4200石となってますよ
塩田開発は無理ですね(^^)
塩田利権については、堺屋太一の「峠の群像」という小説に採用されてたかなー
そうなんだよ(^^)
大河ドラマの峠の群像で
取り上げられたことで
広く知られるようになったんだよ
今は大河ドラマでもフィクションと
言うのが常識だけどね
当時は事実として捉えてたからね