Lu…!

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とある動画へのコメント

2024-06-27 04:24:55 | 日記

 

養老先生の大切な動画に失礼なコメントを試みたお話し。

 

(  以下  )

団塊の世代さん達の中には仰る通り見えるものを信じる、という強烈な信仰を持っておられる方が多数おられます。それはそれでいいんだけど。目で見えるものを信じるって当たり前ですよね。でもそれって強いて言うと「目で見た事のみを事実と認識する」っていう事ですよね。それって一般的な意味での信じる事とは違うんじゃとかって思っちゃったんですけど〜。

そしてそこから「何を信じるのか」は実に様々で、それは推測にあたると思います。事実から「信じられること」を推測するというのは出てくるかなと。

そこから推測をする内容によってはそれは宗教の範疇になると思います。

科学の世界でも推測をして仮説を立てて実験をして(あるいは発掘とか)、そしてやはり本当だった、というのはあったような(高校レベルの科学の記憶でごめんなさい)。でも科学の領域ではそこまで。

科学というのは尊いものですがしかしその後の「「 続き 」」を知らないと思います。信じられる事というのは様々です。

やはり科学においては 推測し仮説をたて「そこから何を本当に信じるべきなのか、 *人間にとって* 」という事に考えが及ばないようです。馬鹿の壁というか。その壁まででも充分楽しく面白いには決まっていますけど。科学はそれでいいけど医療はもっと深いものであって欲しいです(内心ビクビク)

それから。。。。。。正夢とかそういうのどうしたらいいのでしょうか。虫の知らせとか。先生がつとつととフォーマルにお話しする事が先生のお心の全てではないですよね。

アイヌの死の予知は嘘なんでしょうかねぇ。そういう事がわかる人達もいるのを先生の独自のお言葉でお話し頂ければなぁなんて思っちゃってます。

 

ところで馬鹿はダメですか?

 

 

2024年6月26日(水)

 

#当てはまったら危険⁈# 意外と気づかない養老先生の考える馬鹿な人の特徴とは? 

https://youtu.be/7VjhJ4UE4X0?si=3N29FiCO-yoTOcxs

 


梅雨の語源??

2024-06-22 05:11:42 | 日記

つい先日「梅拾い」に行ってきた。梅酒には青い梅を使い、梅干しを作るには熟してしまった橙々色の梅を使うそうだ。農場に着くと見た事もないような大きな梅の木につぶらな梅がたわわに実っていた。

「ドサ ドサ ドサ〜」と降ってきたのは雨ではなく梅。

腕力の強うそうな男の人達が2〜3人梅の木の枝に手を伸ばしてガシガシ梅の枝をゆすりにかけるといっぺんに大粒の梅の実がドッと落ちて来た。

何も知らないわたしは木の真下にいて梅の実の落下を身をもって何度も受けてしまった。というかそれが楽しかったのかもしれない。小さな子どもも気にしていなかったし近所の高齢のご婦人達も気にしていないご様子だった。みんなニコニコしながら梅の実が降ってくると大急ぎでせわしなく梅を拾い集めた。

わたしは人生初の「梅の雨」に独りで大騒ぎをして「梅落とし」がどうの、「梅拾い」がどうの「これこそ梅雨だ!梅雨!大豪雨!」と大興奮だった。見知らぬ方達に大きな声で話しかけ、しかし、気持ちの優しい方達ばかりだったので何故か無視される事もなく相手にしてもらってしまった。ご婦人の一人などは「梅落としって季語?そういう季語があるの?」「あら貴女俳句を詠むの?」などと話しかけてくださって、これまたずいぶん高められてしまった。『俳句なんて詠まないし〜』「季語かどうかさえわからないし、第一そんな言葉がそもそもあるかどうかさえわからない」そんな思いつきで言った事をそんなに褒めないでおくれよ。

おそらくそんな事を勿体ぶらずにスッと心に入って来て話しかけて来てくださるその女性こそ俳句を嗜む方だったのだと思う。彼女はそんな心の人でそんな喋り方をする女性だったと思う。

あまりお褒めくださるので気恥ずかしくなってしまったが今思い出すと心底お優しい方だったのだと思えてくる。グスン、ホロリ。心に出来た温かい水たまり。楽しい1日だったなぁ。

今でも梅の実がポンポンと背中見当たった時の感触が忘れられない。

正に梅の雨。

濃厚な香りが始終漂っていた。

確かに「梅雨どき」の雨ってたまにこんな風にボタボタ降ることもあるのでそれを思わせた。

 

 

2024年6月21日 (金曜日)

 


ガザの人達のこと

2024-06-15 17:39:16 | 日記

ずっとニュースを読み続けて来た。わたしは最初単に海外在住のユダヤ系の気持ちから考えようとして行き過ぎてしまった。しかし立場の違うユダヤ系の人達のお話をお伺いする機会があって、やっと、というか、ついに段々と、現在イスラエルで起きている紛争問題はイスラエルの政教一致の異端によるものという考えに落ち着く様になりました。

ユダヤ系でもガザの人達が好き過ぎて公然とイスラエルを批判をする人達は多勢いる。こういうユダヤ系の人達はパレスティニアン達に分身か何かの様な非常に濃ゆい肉身の情の様な感情を抱いている様に感じるのですがそこに気がついた方はこのブログを読んだ人の中にいないかしら。

行き過ぎというか聖書に反した政教一致というのはキリスト教にもあるけれど、ガザのあれは酷かった、目も当てられない。政教一致というのは良い方に働けば素晴らしいことに違いないけれどよくよく吟味すべき事に違いない。キリスト教においてもそれは同じ。

そのガザ愛が止まらないちょっとユダヤ系のお友達は根っからの無神論者なんだけど「あなたの心は全然異端的じゃないのね」と言ったらショックのあまりしばらく口を聞いてくれなかった。そんなものに自分を当て嵌めてなんか言われた事にさすがに目が点になってしまったのだと思う。

その方の長年のガザのお友達が5月だったかに英語記事になっていたので皆様とシェア致します。たしか東大でこのキャンペーンをやっていた様です。

 

 

https://www.news-journal.com/gaza-born-activist-returns-to-japan-to-support-university-of-tokyo-solidarity-encampment/video_93cd48d5-c130-5f97-9245-81a0f72787c2.html

 

 

 


よく神様っているのぉ〜と聞かれるけど。

2024-06-15 17:31:58 | 日記

よく神様っているのぉ〜と聞かれるけど、どうして神様がいないと思う人がいるのかよくわからない。

まぁ。母親の愛もそうだけど、もし母親の愛を信じられなかったら、まぁ、いるような、いないような、「まぁいたけどサ」ということにならないだろうか。母の愛とか言っていろいろ思い出すことが出来る人は「自分にはお母さんがいたんだな」と素直に思うことができるのだろうけど、私はいろいろな事情があって、若い時、本当に素直に、ちっとも母親の愛を信じられない方の人だった、しかし、歳をとったら、割と逆の意味で素直にいろいろ良いことを思い出す事が出来るようになりました。(そもそも素直の意味がアベコベになってしまった)。

神様も「神の愛」を信じられなければ、「神様っているの」という事に余計に目に見えない分だけそうなるのではないだろうか。

そこで。神の愛って何よ、っていう事になると思うのだけど。

神の愛とはイエズス様が十字架に自らのぼったという事に他ならないのではないかと思う。神の愛は既にこれ以上無いという形ではっきりと2000年前に現されているのでは。

神の愛は、信じる為というよりは、「深く識る為に」現されたように思う。(まぁそれは信じる為なんだけど)。

神の愛は約2000年前に、まざまざと現され、それをわたし達は、見て識ったのではないだろうか。神の愛がこの様な形で胸に刻まれたのではないかという気がする。

イエズス様の十字架を見て、誰も「神の愛」を見ない人はいない。

十字架を見た人は皆神の愛を識るのではないだろうか。

十字架を知らない人達が「神様っているのぉ?」と未だに質問してくるのだ。

このお話はおそらく毎日ロザリオを唱えているような人が心の内に明かされた事なのではないかと思う。その毎日心を痛めて祈っている人というのは言うまでもなく私ではない。さぁみんなで唱えよう。「わたしは神の愛を信じます」と。『わたしは十字架をこの目で見たのですから』と。

そしてその方が復活されたとあっては?

 



アーメン   アーメン   アーメン   アーメン   アーメン。。。。。

あの時のゴルゴタの丘でのヘブライ語。

そして聖霊降臨の時のヘブライ語。

ハルメギドに苦しむわたしのヘブライ語。

( = 山 - 人々・民衆) 

 

 

イエズス様は仏教徒にとっても救い主。

 

 

 


神への欲望で胸が一杯

2022-06-02 12:01:45 | 日記

わくわくどきどき。

 

 

 

でもわたしの場合変な裏の意味とか

無いんです。単に何故か神への欲望で胸が

一杯になって 時々なるただのラブシック。

我ながらなんて貪欲なんだろうと戸惑いを感じます。自分はむしろ欠点だらけの人間で悪い点ばかり思い浮かぶし「歩く不完全性」というのが言うなればぴったりのいじられ系のあだ名かもしれません。自分によくうんざりしています。謙遜というのも私の場合いわゆる謙遜の徳の事ではなく実はありのままの自分の実態を知るに過ぎず神様の正直さにあ゛ あ゛ あ゛ぁ˝   ぁ˝   ぁ˝、と悲鳴を上げています。自分に「しょうがないや」とぼやいていますが信仰によってダメな自分を喜ぶようにしています。

わたしの小さな頭はもう壊れてしまっているにちがいない。死にたいなんて言う昔なら教会から追い出されてしまいそうな思いにさえ「神様ってすごいとかなんて素敵なんだろう」という思いで胸が一杯になっているのですが、その関連性をうまく説明できないでいます(やはり壊れている?)。

思うに本当に自殺をして亡くなられた方々はもし誰かが活かしてくれるんだったら活かされてみたい、という気持ちで一杯 だった方々に違いないのだ。活かされてみたいと思っていたし実にそういう意味で楽ちんにだったら活かされて活きてみたかったに違いない人達だ。

わたしのようなろくでもない人間に限って、本当に、神を思うお恵みで胸が一杯になっていて一体感にますます恋焦がれるあまり死にたいなどと妄言を吐いているに違いない。

日本の皆さまが本当に必要とされることはカトリックの教えに出会い信心のお恵みに日々目を輝かせるようになることなのだと思います。とはいえ人生何も変わりゃしませんが信仰によっていろんなことを喜ぶことができるようになり活かされて生きられるようになります。この世の社会常識の良いことも少しずつですが学ぶことができます。(人目には何も変わらんダメな奴にたとえ見えても)。

何故洗礼が必要なのかと何度も聞かれましたがそれもやはり(後出し2024•6•15•土)、

*洗礼という秘蹟* を受けて「悔い改めます!」って神様とお約束するというのと、私的にその様に独りで決める事とは全く違うのではないかと思います。

秘蹟を受けるっていう点が違うというか。

もうその後は理屈じゃないというか。

この文章は日記のようなもので特に皆様に発信しているわけじゃないです。う˝う˝う˝ぅぅぅ~私の変な個人的な意見を読んでしまった人、実は大変申し訳なく思ってます。なんか読む機会を与えちゃってごめんなさい。

 

 

 

 

ではお元気で。

 

 

 

 

岐部神父様の吊るされた穴は恐ろしく苦しい穴で、どんなに苦しかっただろうと (沈黙)。つらく寂しい心理攻撃を沢山受けた穴だと思います。わたしは個人的にキベホールと呼んでいます。聖なる神父様、(聖なる、という意味が恐ろし過ぎる、本当に畏れ多い)、聖なる神父様、わたしのためにお祈りください。わたしの魂を天国にお導き下さい。

転んでしまった大好きな私のお母さん、天国では絶対に一緒だよ、どこかできっと悔い改めのお恵みを戴くに違いないと固く信じていますし、その事をお母さんと一緒にひざまずいてマリア様にお祈りしたいと思っているよ。「こんどそうしよう」。きょうのひはさようなら。またあうひまで。天国では必ず一緒にいられるようにお祈りしてるから。先に天国に行ったデルツルダお姉さまだってそう思ってあの苦しみを全部犠牲に捧げたのだから(娘のほうはそこまで出来なくてごめんなさい)。お母さんは愛されて本当に魂を望まれています。

 

 

 

 

洗礼は何のためという疑問は1990年位によく相模原教会に来ていた求道者?の青年が何回も発していた疑問でわたしもこの歳になるまでうまく?説明してあげられなかった、ずいぶん時間がかかっちゃってゴメンね。ごくごく短くごくごく簡潔に説明出来て良かったぁ〜。一生懸命考えたのよ、本一冊を俳句の様に短くって。ずっと考えていた。でもあの時もマキシム神父様に聞いてよって言ったし、そのほうが親切だし、うんうん ←またもや自己完結してるぅ。