ムーミンパパの気まぐれ日記

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Pity's akin to love.

2011-05-10 | column
 いつものように取りとめのないことを考えながら歩いていて、上野不忍池に差しかかる辺りで、ふと幸田露伴という名前が頭に浮かんできた。ご存知のとおり明治時代の著名な小説家であり、東京下谷の生まれであるところから、場所柄この小説家のことを思い出すこと自体はさほど不思議なことではない。不忍池中央部分にある弁天堂を横目で眺めつつ、そういえばこの郷土の偉人の著作を読んだ記憶がないなあと思いながら、そういえば「可哀そうってこたあ、惚れたってことよ。」っていう台詞があったけど、あれって幸田露伴だったけかなあというところに思いが及んでいった。読んでもいない作家の内容を覚えているっていうのも奇妙なことではあるけれど、所詮知識などというものは断片の集合体でしかないからななどと、それこそ奇妙な理屈をひねり出しながらも、その原典が少し気になった。調べてみると、案の定、幸田露伴ではなく夏目漱石の「三四郎」の中に出てくる台詞だった。ちょっと長くなるが、引用してみると、
 
 「もう大抵片付いたんですか」と云いながら、野々宮さんはにやにや笑ひながら、「大分賑やかな様ですね。何か面白いことがありますか」と云つて、ぐるりと後向に縁側へ腰をかけた。「今僕が翻訳をして先生に叱られた所です」「翻訳を? どんな翻訳ですか」「なに詰らない―可哀想だた惚れたつて事よと云ふんです」「へえ」と云つた野々宮君は縁側で筋違に向き直つた。「一体そりや何ですか。僕にゃ意味が分らない」「誰にだつて分らんさ」と今度は先生が云つた。「いや、少し言葉をつめ過たから―当り前に延ばすと、斯うです。可哀想だとは惚れたと云う事よ」「アハハハ。さうして其原文は何と云ふのです」「Pity's akin to love」と美禰子が繰り返した。美しい奇麗な発音であった。

 という部分に出てくる。もちろん、小説のこの一節だけ読んでも何がなにやらという感じではあるが、要するに翻訳、あえて言えば意訳の巧拙をめぐる会話である。ただ、私としてはその意訳の仕方よりも、可哀想って思うってことは無意識のうちに惚れているってことなのかあということの方が強く印象に残っていた。三四郎のストーリーなんかちっとも覚えていないのだから、高校生にとってはその方が重要だったのだろう。青春という奴である。

 ともあれ、今さら恋愛がどうこうって年齢ではなくなってしまったが、それでも「愛している」とか「恋している」とかっていう言葉よりも「惚れた」っていう言葉の方が男性の恋心を表すのにはしっくりくるような気がしている。英語で言えば全部ただのLoveになってしまうのかもしれないから、どうやら日本語の方が愛情表現はこまやかなのかもしれない。どちらが愛情が深いかとかといった問題とは違うけれど、こうした抒情的な風景の奥行きの深さが日本文化の特徴なのであろう。

 そんなことを思いながら弁天堂の写真を見てみると、これがまた見事なまでに背景に建つマンションが趣をぶち壊している。これもまた日本文化の特徴なのかとふぅっと溜息をつかざるを得ないのであった。

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