「久しぶり」となったのは、毎回申し込んでいるのですが、このところ続けて抽選にもれていたからです。
今回は幸運にも参加できて本当によかったと思っています。というのは、普段は立ち入ることができない天祐寺の諫早家墓所を見学できたからです。
天祐寺 曹洞宗「坤松山天祐寺」

九州では珍しい回廊がある奈良の寺院様式のお寺です。
本堂

諫早家墓所入り口

瓦屋根のついた白壁の向こうに墓所があります。
墓所見学

ここには、初代龍造寺家晴から18代諫早家興までの墓と、その奥方、子女の墓、灯籠等がずらりと並んでいます。(2代直孝より姓を「龍造寺」から「諫早」と改名)

諫早家墓所の特徴は大きく2つあります。
1つ目は、「弥勒四十九院様式」といわれるもので、墓石のまわりを49基の石柵で囲んでいます。起源は鎌倉時代以降の墳墓の周りに49基の卒塔婆を建てたのが始まりだそうです。この様式は極めて高貴な人の墓に用いられるそうです。
2つめは、四十九院造りの石柵の中に、領主と正室を並べて葬っていることです。また、側室や殉死した家臣の墓も石柵のすぐ隣に建てられています。

灯籠の奥に、領主と正室の墓石が並んで建っています。
初代龍造寺家晴の墓

領主の墓の横に、殉死した家臣の墓が建てられています。
石柵の左側

ずらりと…
主君の死を悼み、追い腹を切った家臣の殉死墓は、3代茂敬まで続きました。
ところが、4代茂真からは殉死墓はありません。それは1663年に江戸幕府より殉死禁止のお達しがあったからです。
墓所の上に通じる石段を登ると

山が切り開かれ、そこにも49基の石柵に囲まれた立派な石室の墓がありました。

どうして離れた所に?
しかも、これまで見た領主の墓と作り方が違います。
これは2代直孝の後室の墓だそうです。
直孝の後室は、肥前佐賀鍋島藩の開祖・鍋島直茂の娘です。彼女は鍋島姫としてのプライドが高く、諫早家と同列の埋葬を嫌い、諫早家墓所を見下ろす高台に佐賀から御影石を運んで石室を建てよと、生前に指示をしていたそうです。
立派な石室墓ですが、主人の傍に葬られるのをを拒んだので単独墓となっています。

中には墓石は1基
このことからも、諫早家は鍋島家に頭が上がらなかったことが見てとれます。本来は、龍造寺家(諫早家)が鍋島家の主家であったはずなのですが。
この高台にはもう一つ石室がありました。
それは4代茂直の墓です。4代は先ほどの鍋島姫の孫になります。
ですから、高台には2代の後室(鍋島姫)と4代の墓だけがあります。
4代の墓

立派な石室です。
中には正室と並んで墓石があります。

石室の中なので墓石はとてもきれいです。
全然傷んでいません。
よく見ると、石墓の後の49基の石柵には朱の文字(模様?)が入れられています。
さらに入り口ですが

入り口の柱と前面の壁は一体造りです。
ということは、とてつもなく大きな石が使われたことになります。柱をレリーフ調にした分それ以外を削って削って壁の面にしています。なんと手の込んだ…。
巷の伝説では、茂直公は雷が嫌いだったので、防御の石室を作らせたと言い伝えられていますが、そこまでするかという印象を持ちました。
なお、この4代の墓の近くに3基の六地蔵石幢が建っていました。

墓所の中にあったからでしょうか、六地蔵の顔は明治の廃仏毀釈で潰されることなくとてもきれいでした。

ただ、この六地蔵石幢の年代が1526年頃なので、諫早氏前の西郷氏時代のものとなります。
この天祐寺は、元々は諫早氏の前にこの地を治めていた西郷氏の菩提寺でした。西郷氏を滅ぼし新しい領主となった龍造寺(諫早)氏も天祐寺に帰依し、そのまま龍造寺氏の菩提寺にしたのです。
いつもは塀の外から眺めるだけの諫早家墓所でしたが、実際にその中を見学することで、諫早家の歴史を肌で感じとることができました。初代から18代までの300年間が凝縮されているようでした。
諫早家墓所を守り続けた歴代住職の墓


苔むし、静かに建ち並ぶ無縫塔に、連綿とした歴史の流れが感じられました。