北関東、歴史的な建物の場所の不思議

古墳や神社などの建造物の場所について、火山の場所や太陽の日の出・日の入り方向等と関連づけ、何故そこなのか等を分析します。

三峯神社奥宮の場所について

2018年08月20日 02時04分37秒 | 歴史

今回は、三峯神社(埼玉県秩父市)の奥宮の場所について、方位を分析します。

三峯神社の奥宮は、妙法ケ岳の山上に鎮座し、神社から山道を南東に向かって歩いて約1時間20分のところにあります。道は、平坦ではないので、参拝する場合には登山の準備が必要だそうです。

創建されたのは、1741(寛保元)年です。

現地の様子は、リンクでご覧ください。(リンク1リンク2リンク3) ちなみに、筆者は未だ参拝しておりません。本来ならば、自分で現場を撮影して、写真をアップロードすべきです。ですが、登山は苦手です。


では、方位について分析します。

まず、GoogleEarthで、三峯神社奥宮から、真東(機首方位90度)の方向に線(きいろ)を引きます。奥宮の近隣は平坦ではないので、下図では曲線になっています。

次に、この線を東方向に伸ばします。
線は、川越市内を下図のように通過します(あか色)。

すると、この線が、喜多院を通過していることが、確認できます!当時の技術者がこれを予め計算していたのかは、現代となっては確認できません。ただ、江戸時代は神仏習合で、三峯神社の神前奉仕は天台法華宗の僧侶が行なっていました。ですので、同じ宗旨の喜多院を真東に臨むような場所に、奥宮が建設されていても、それは不思議ではありません。

 

 


雁坂嶺からさきたま古墳群と大國魂神社をみる

2016年11月04日 15時39分57秒 | 歴史

今回は、9月に投稿した「さきたま古墳群と大國魂神社は経度が同じ」の続きです。

今回の要旨は下記の2点です。

1 雁坂嶺(かりさかれい)からみて、さきたま古墳群までの距離と大國魂神社までの距離は、等しい。

2 丸墓山古墳(さきたま古墳群のなかの円墳)、雁坂嶺、大國魂神社のなす角度が、

  ほぼ45°である。

では、説明します。

まず、雁坂嶺にポイントを置きます。

雁坂嶺は、山梨県と埼玉県の県境にあります。その近くにある雁坂峠は、縄文時代から人の往来があったことが、発掘によって確認されています。また、平成10年に近隣を国道140号線雁坂トンネルが開通しています。

下図のように、雁坂嶺から、さきたま古墳群と大國魂神社に向け、それぞれ直線(きいろ)を引きます。

 

雁坂嶺からの直線をさきたま古墳群まで伸ばすと、下図のようになります。GoogleEarthの計算では、丸墓山古墳までの距離が67,860mで、機首方位が67.54°です。

 

次に、雁坂嶺からの直線を大國魂神社まで伸ばすと、下図のようになります。GoogleEarthの計算では、距離が68,086mで、機首方位が112.01°です。

 

まとめです。

距離については、両方ともほぼ68kmで等しい(0.4%弱のわずかな誤差)ということがわかりました。雁坂嶺でこの2直線がなす角度は、112.01-67.54=44.47°であり、ほぼ45°ということになります。45°という大きさは、直角の2分の1で、キリが良い角度です。

上記のこと、及びさきたま古墳群と大國魂神社が同じ経度であることから、筆者は次のように考えます。

これらの施設の建造にあたっては、同じ宗教や民族の流れを汲む事業主体があって、彼らは幾何学や天文学に精通されていて、かつ甲斐国から武蔵国に雁坂峠を越えてきたのでしょう。

読者のみなさん、他にもたくさん考え方があると思いますので、ぜひコメント欄にご記入ください!

 

 

 


こち亀から読み取れる昭和51年と現在(平成28年)

2016年09月27日 23時08分18秒 | 生活

私は40歳代なのですが、先週、週刊少年ジャンプ(280円)を買いました。こち亀が最後になるので、見納めにするためです。

これには、連載が始まった昭和51年第29号のこち亀が載っていて、当時の様子が読み取れました。

以下、当時の様子について、気に留まったことを箇条書きします。

〇電話機は、ダイヤル式が主流でした。プッシュポンはまだ見られない昭和44年から市販されていたそうですが広がっていないようです。派出所の電話は黒色で、商店の軒先の公衆電話は赤色でした。

〇両津さんの勤務日の昼食が、出前の天丼でした。こういうのは、現代のサラリーマンとあまり変わらないようです。

〇タクシーの初乗料金は280円でした。昭和51年の物価は、大卒初任給:90,575 円、 たばこ(ゴールデンバット)40 円、はがき20円、米10kg2,740円、国鉄初乗60円、週刊少年ジャンプ170円だったそうです。当時(昭和51年)と現在(平成28年)の物価と比べると、タバコだけが10倍以上に突出して高くなっていますね。他のものは2~3倍程度なのですが・・・。

〇牛乳は、ビン詰め(200ml)が主流で、紙パック詰めはマイナーでした。漫画では、ビンに「小岩井」と書かれています。世間では、連載開始とほぼ同じ頃、昭和51年6月に小岩井乳業株式会社が設立されています。

〇建設現場の作業員さんは、保護帽(ヘルメット)を着用しています。ヘルメットの着用は、すでに昭和47年に労働安全衛生法で義務化されていました。漫画にも時代の流れが取り入れられていたのでしょう。

〇職場では、事務机にも宿直室にも灰皿がありました。勤務中に普通にタバコを吸えたようです。

○室内のゲームと言えば、花札やトランプが主流でした。上右の挿し絵では、両津と中川が座布団の上で花札をやっています。昭和51年時点では、まだ家庭向けテレビゲーム(カラーテレビゲーム15やファミリーコンピュータなど)はまだ世に出てきていませんでした。

 

〇携帯電話(民生用)やパソコンはありませんでした。

他にも、時代の違いが見つかると思います。よければ、コメント欄に記載ください。

 

追記2016.11.06 画像を挿入し、一部字句を修正しました。

 追記2016.11.20  ビン詰め牛乳のあたりの部分を、修正しました。

 追記2016.11.29  テレビゲーム関連などを追記しました。タイトルを修正しました。

 


埼玉古墳群と大国魂神社は経度が同じ

2016年09月22日 16時49分02秒 | 歴史

【追記2017.10.3   標記のことについて、2012年にPawpawさんという方が、発表されていました。ですので、私の発見ではありません。】

 

当ブログのテーマにある「北関東」から外れますが、

今回は、東京都府中市にある大国魂神社に注目します。

府中市は、旧武蔵国の国府があった歴史のある街であり、大国魂神社も旧武蔵国の総社であり、いずれも奥が深くて私の言葉では言い表せないです。読者の皆さんには、リンクのホームページを読んでいければと思います。

では、GoogleEarthで地図上に線を引き、標記のこと今回の発見について説明します。

まず、大国魂神社から真北(機首方位0.00度)に向け、下図のように直線(赤い太線)を引きます。

 

そして、下図のように、この線を真北に向けて埼玉古墳群の辺りまで伸ばします。距離にして、約50Kmです。

 

そうすると、埼玉古墳群(行田市)の中にある丸墓山古墳に機首方位359.95度でぶつかります。

この誤差は、角度で0.05度、距離では古墳の半径程度で約50mと、小さいです。

丸墓山古墳は、日本国内の円墳としては最も大きいといわれています。

大国魂神社と埼玉古墳群との間に、何らかのつながりがあるような予感がします。

継続して調べます。

 

 

 

 

 

 


あいさつ

2016年07月05日 00時08分37秒 | 歴史

この半年近く、ブログを休んでいます。なのに、アクセスしてくれる方、ありがとうございます。

これまで調べたことから、日本の江戸時代以前の幾何学や測量技術が高かったことに気がつきました。

埼玉古墳群と秩父神社及び刈坂雁坂が一直線上に並ぶ(筆者ブログ参照)ことなどから、

60km以上も離れていて、地上からは互いに見えないものを一直線に並べるなんて、

当時の技術者(設計責任者というべき?)は、地動説を承知の上で仕事をしていたと思われます。

このことにはショックを受け、何か自分の中の常識が崩されるような感じがして、少し恐くなっています。いまも、何かボーっとした感じがしています。

でも、史跡や方位のことで下調べは続けていますので、復活はするつもりです。

期待して下さる方には申し訳ないです。

 

メモ2016年7月6日誤字の修正、一部追記。2016年9月22日リンク挿入など一部修正。

 



 


あいさつ

2016年05月09日 11時47分06秒 | 歴史

http://knk2015.jugem.jp から引っ越して参りました。

よろしくお願いします。

このブログは、歴史的な建造物(古墳、寺社、城郭など)がなぜその場所にあるのかを話題にします。

方法としては、まず対象とする建造物とパワースポットたる山岳との間に直線を引き、次に方位などを計測し、そして冬至の日の入り方向と一致するかなどを確認します。

 実際に調べてみますと、色んな史跡で冬至日に有名な山の方向に日が沈むのを見付けられます。

では、また。

 

 

 

 

 


冬至日の日の入り方向に山が見える

2016年05月07日 22時32分12秒 | 歴史

お久しぶりです。

まだ、整理ができていないのですが、冬至の日の入りについて、気が付いたことをアップします。

昔の人は、冬至(一年で昼間が最も短い日で12月22日頃)の日に、夕日が有名な山の方角に沈むような場所に、建物等を立てたように思います。

冬至の日には、

・日光東照宮では、赤城山の方に日の入りします。

・埼玉古墳群では、武甲山の方に日の入りします。(当ブログ掲載済み

・東京都府中市(かつて武蔵国の国府があった)では、富士山の方に日の入りします。

hinode.picsで検証されますと、日の入り方向線が若干北西にずれますが、これは標高差を考慮していないからです。

 

太陽や山岳への信仰心があっと自分は思います。