なんくるないさ~いい加減の7割と別解で~

「お菓子のようなおいしい人に」(西村滋)。夢やロマンは想像力から。これからどんな人生が…そんな思いをつれづれに

うららかな春の日に

2014-04-08 06:05:44 | 日記


5歳になる娘。不思議な縁で、合気道を習い、アフリカの太鼓(シャンベ)を楽しんでいます。
写真は、「ちびニケ」というグループでサービスエリアで演奏を披露したところ。
このグループは、ほぼ合気道の仲間でもあります。
太鼓の音は、「腹に響く」というか体全体で感じることができていいものです。
リズム感のない父としては、演奏というわけにはいかないですが……。
中学時代、トランペットに憧れたり、沖縄音楽が好きになって、三線(さんしん)やエイサーをやってみたいとは思ったりするのですが、なかなか……
僕の尊敬する西村滋先生は、ピアノが弾けます。日本舞踊が踊れます。歌gが歌えます。流しをやり、レコードを出したことも。弾けて歌って踊り、聴衆を眠らせずに講演もできるのですが、家が建てられない作家です。感化院(少年院)で紙のピアノ(今のように音が出るわけではもちろんありません)で、独学で身に付けてしまうのですから、さすがです。
これにも理由があるのですが、このことはまたいずれ。
娘の合気道・タンベの先生は、「自分が楽しめないと見ている人も楽しめないんだよ」って、ある子どもに言っていたことが印象に残っています。
この娘の先生の生き方、僕より年下で見た目はヒッピー(死語かな?)みたいですが、人物として、人間としておもしろいのです。
その話もいずれまた。

チームということ

2014-04-06 09:30:06 | 日記
最近、「チームで」や「組織で」といった言葉を耳にする。
「ひとりはみんなのために みんなはひとりのために」といった言葉もある。
ラグビーでは、「one for all / all for one」と表現されたりもする。
生活綴方(少しでもわかっていただけるようにいうとすれば、作文教育。生活を綴った日記をもとに学び合う、支え合う実践。)を大学・大学院で取り組んでいた僕としては、馴染みが深いことばでもある。
でも、最近、この「集団(会社・チーム・クラス・学校)のために違和感や危険」を感じている。
「○○中がよくなるように」「○○中のために」といった、ある種の体面のために「滅私奉公を求めれている」ように感じてしまうのである。「○○中」は、会社名でも、自分が属する集団の名前に置きかえてもいい。
「集団は、ひとりひとりの幸せを実現するために生まれるもの。存在するもの」であり、集団のあるべき姿が先にあって、それに個人を合わせていくものではないと僕は、考えている。
先の「○○中がよくなるように」「○○中のために」と集団を冠することで、「ひとりひとりの顔」が見えなくなっているような気がするのである。先の東北大震災でも、交通事故者数といった形でも、亡くなられた方が数字化されると、「数字の1」として積み上げられることになってしまう。本来ならば、その「1」は何ものにも代えがたい「1」であり、それぞれが具体的かつ個性的な「その人なりの歴史。背景。ストーリー」をもった「1」であるにもかかわらずにでもある。
 僕が学んできた、学んでいる生活綴方でいえば、「個のリアリティ」(佐々木 昂)「個の論理」(国分一太郎)が「数字化」されることによって、抽象化というより捨象されてしまうのである。昨今の流行でいえば、個の「文脈」が、である。
ひとりひとりの顔が見える集団にしていく、ひとりひとりが「ハッピーに生きる」ための集団にしていく。そのために必要なことをいま一度じっくり考え、実践を積み上げるようにしていきたいとつれづれに思っている。

「怒る」と「叱る」

2014-04-04 06:04:59 | 日記
僕がいる業界?では、新人は「叱る」ことができない、「叱る」ことができるようになって一人前とさえ言われることがある。
子どもたちは、「叱られた」ことを「怒られた」と表現することがある。
では、「叱る」と「怒(おこ)る」は、同じ意味なのだろうか。「怒り」に任せて「叱る」という言い方もする。
ここでは、辞書的な解釈でなく、いま、僕なりに考えていることを書き綴ってみる。

 「怒る」とは、自らの感情(ある種、自分の嫌悪感)の怒(いか)りに任せて、相手に「恐怖」「恐れ」を与えること
 
 であり、

 「叱る」とは、理性(あるいは、道理。相手のこれからのことを考えて)をもって、叱られた相手が納得し、改善に向かっていくことが展望 されること

といったことになろうか。
 とすれば、時には「怒り」に任せて「怒る」ことも必要ではあると思うが、僕がいる業界では、特に「叱る」ということを大事にしなければならないのではないか。
 文章を閉じようとしたとき、「怒り」がなければ、成長も進歩もないような気もしてきた。「怒り」は、「起爆剤」・「エネルギー」でもあり、何かの「バロメーター」というような気もしてきた。
 昨夏、西郷竹彦氏が立ち上げた「文芸学」を学ぶ、継承・発展させている文芸研の研究大会に、初めて参加した。「あさの あつこ」さんのお話も面白かった(ご高齢にもかかわらず熱さが伝わってきました。西郷氏だけでなく、これまで大村はま氏・青木幹勇氏に直接お目にかかれていること幸運です。わがお師匠のおかげです。)が、TBSの報道特集」の金平茂紀さんのお話もよかった。その金平氏が書かれた「沖縄ワジワジー通信」(七つ森書房)を購入し、サインとともに握手をしていただいたことが思い出された。
 「ワジワジー」とは、金平氏が沖縄の人たちに「金平さんは、いつもワジワジーしているね。」と言われているのだそうだ。
 いつかまた稿を改め考えてみたい。

4月スタート 前日に

2014-04-02 06:30:52 | 日記
懐かしい場所です。
小学校1年から続けた剣道を高校でも続けました。
勉強はできず、レギュラーにもなれずでしたが、何とか3年間続けられたことが自信に。
剣道部の仲間だけでなく、運動部の多くの友人を得ることができました。
社会人になってからも、お花見、バーベキュー、年末には忘年会、旅行を積み重ねてきました。
家族ぐるみで。
最近は、年末ぐらいにしか集まれませんが。
スポーツを通して汗を流した仲間はいいです。
これからも大切にしていきたい仲間です。

新たなる旅立ち

2014-03-31 09:28:47 | 日記
2月は、「逃げる月」。3月は、「去る月」。
あまり「有終の美」という言葉は好きではない。
仕事上、異動が3年~6年周期でやってくる。中学校の教師をしているのだ。
離任式にあたって、子どもたちに言葉を贈ろうと思っていたがやめた。
実は、こんな言葉を用意していた。

みなさん、ハッピーに生きていってください。
「ハッピーに生きる」(金森俊朗)とは、自分のしたいことをしたいようにする、ということだけではできないと思っています。
「ハッピーに生きる」には、3つのことが大切になってくると思っていますが、自分自身でも考えてみてください。ぼく流に考えている「ハッピーに生きる」ための三カ条は

①大切にする
②考える
③流す です。

1つめの「大切にする」とは、
沖縄の言葉で「命(ぬちどう)宝」とあるように「命を大切」にすること
心と体の健康に注意することです。

2つめの「考える」とは、
やはり沖縄の言葉で「なんくるないさ」ということです。
本来は「どうにかなるさ」という意味ですが、
答えを導き出す方法はひとつではないし、ひとつがダメだったら、別の方法を考えたり、見方を変えたりすることにつながる言葉だと僕は思っています。
お医者さんの鎌田さんがPHP新書で「別解力」と書かれていることに通じます。この本、ぜひ読んでみてください。

3つめの「流す」とは、
自分のために、
家族のために、
友達のために、
見知らぬ誰かのために
汗や涙を流す
ということです。
汗は、努力や自分以外の人のことを思って行動し、
涙は、ともに喜んだり、悲しんだり、怒ったりすることです。

この3つを学ぶ場所が学校であり、ほんとうに学べば、「ハッピーに生きる」ことができると思っています。
みなさんの頑張りに負けないように頑張ります。
みなさんのお父さんやお母さん、家族の方にお世話になりましたと言っていたことをぜひ伝えてください。
みなさん、ありがとうございました。さようなら。