なんくるないさ~いい加減の7割と別解で~

「お菓子のようなおいしい人に」(西村滋)。夢やロマンは想像力から。これからどんな人生が…そんな思いをつれづれに

『せんせい記者日記』の試み

2014-04-20 06:04:49 | 日記

ある地方新聞を眺めていて目にとまった書名。
その日に,インターネットで注文をして購入。
小坂真希 著『せんせい記者日記』(信濃毎日新聞社 2014年1月16日 初版)です。
信濃,信州は,教育県として有名であり,大村はま先生の生まれ故郷。
信濃毎日新聞社の記者 小坂さんがその職を継続しながら須坂市立相森中学校で2013年1月~2014年7月まで国語教師として見聞きしたことを「2013年1月13日から7月31日まで62回にわたり連載した『せんせい記者日記』」を担当していたときの記事です
それなりに教育実践をまとめた本を読んでいますが,このような形で教育実践の場を記録したものは多くはないと思います。
記者が記録した教育実践として有名なものは,芦田恵之助の授業を記録した青山廣志があります。僕が研究対象とした国分一太郎は,『教室の記録』で公立学校の教師としての職を奪われています。生活綴方や生活教育,民間教育団体に参加しつつ教育実践に取り組まれている先生方は,ドラマチックな教育実践記録を数多くまとめられています。教師を志されている人には,岐阜 恵那の丹羽徳子氏や津田八洲男氏,金森俊朗氏の実践記録はぜひ読んでほしいものです。
さて,この本の僕が感じた「すごい」ところ。
教育「現場」のほんとうの姿,朝の打ち合わせ(18~19頁「廊下で「朝会」貴重な10分」),放課後,雑務の多さ(38~39頁「試験・行事・会計事務……」,道徳の時間の使い方(18~19頁「廊下で「朝会」貴重な10分」),などがある意味淡々と記録されていること。おそらく小坂さんが記者だったからこそ書けたことであり,僕などの感覚が麻痺しかけているところを「新鮮」にとらえてくれたからであると思っています。と同時に,この研修を認め,記事を認めた相森中校長 後藤昭彦氏と教育委員会の姿勢でしょう。
内容については,また今後触れていきたいとは思っています。

「無駄・遊び」と「効率」は教育・人生にとって シリーズ2

2014-04-15 06:10:16 | 日記
前の記事の続きを。
「効率よく」ということ,「楽に」「ムダを省く」ことだけが是とされていることはないでしょうか。
「うまく」「上手に」「要領よく」という結果だけに目が向いてしまってはいないでしょうか。
「費用対効果」という言葉も聞かれます。
これらの言葉の対局にいるのが,「フーテンの寅さん」や「北の国から」の五郎さんではないかと思うのです。
彼らの存在が,僕たちの生活を「豊か」にしてくれている人たちだと思うのです。
寅さんの山田洋次監督が「人間,このめんどくさいもの」というブックレットを書いています。
僕が尊敬するK先生のブログをもう一度見てみます。


<遊びのコミュニケーション>が為される。この<遊び>こそがリハビリの空間を和ませ、楽しませ、やる気をいっそうおこさせてく   れたのだ。これは、ぼくなどが日本の教育界からつかみとらされていた<無駄の徹底排除>(たとえば、掃除における黙働)という   「教育的正義」の対極にあるものだ。



学校という場は,同一年齢の子どもたちを「教室」という場所に集め,一人の教師が効率よく「教育(学習)内容」を効率よく教えていくところなのでしょうか。
僕は,首を横に振りたいのです。
ちょっとだけタイトルに近づきました。次回,さらに近づきたいと思います。

「無駄・遊び」と「効率」は教育・人生にとって

2014-04-15 00:08:14 | 日記
僕が尊敬する研究者にK先生がいらっしゃいます。本来は,直接ご指導いただいていないので,勝手に「先生」と呼ぶことは控えなければならないところですが……。
K先生の埼玉大学のゼミ出身のTさん(この方も大学の研究者として活躍されています)という方が僕が在学していた大学の大学院へ入学されてきたことがことの始まりです。
K生の書かれた『私の中の囚人』(高文研)は,すごいのです。
K先生は,生活綴方の研究者でもあるのですが,自らが生活綴方を実践されていると僕は思っています。自らの生育史,ありようを見つめるリアリズム。衝撃を受けたのです。
そのK先生がブログの中で,

 少々疲れたなと思うと、療法士が「何か飲みますか?」と声をかけてくれる。ぼくは暖かい緑茶が好きなので「暖かいグリーンティを」  と注文する。すると療法士があつらえてくれる。それはどこでもあるサービスだろう。だが、「Kさんは、暖かい、という表現と、グ  リーンティという表現を必ずしますね。どうして、暖かい+緑茶、じゃないの?」という<遊びのコミュニケーション>が為される。こ の<遊び>こそがリハビリの空間を和ませ、楽しませ、やる気をいっそうおこさせてくれたのだ。これは、ぼくなどが日本の教育界から つかみとらされていた<無駄の徹底排除>(たとえば、掃除における黙働)という「教育的正義」の対極にあるものだ。

と書かれています。
K先生のご病気の状態はもちろん心配ですが,自らのリハビリ生活さえ,研究,思考,いや自らの成長・発達の力に生かされていることです。「生きて働く力こそ教育の力」なのでしょう。
長くなったにもかかわらず,表題の中身にたどり着きません。
また稿をあらためて。

子どもって 大人って

2014-04-13 08:21:42 | 日記
憲法改正を目論んで,18歳以上に選挙権をという動きがあります。
本来は,18歳以上の人格,判断,社会的参加・責任の意義を認めてのものであるはずなのにです。
僕は,20数年前の自身の成人式に出ることを渋ったことがあります。なぜなら,「大人になる」ということを
制度的に「規定」,決められることに強い違和感をもっていたからです。「大人になる」というのは,精神的かつ経済的な自立をすることであり,自身の問題であると考えていたからです。

突然ですが,僕は,「子どもだまし」という言葉が嫌いです。
「子どもにこそ」「ほんもの」が必要であると考えているからです。
子どものときにこそ「ほんもの」に出会っておけば,「オトナ」が創り出す「ニセモノ」に
誤魔化される,騙されることはないと思っているからです。
子どもの感性を信じているからです。
感性が磨かれた子どもが大きくなっていけば,自らの判断・選択を積み重ねる中で成長していけると
思っているからです。
そんなこともあり,保育士さんや幼稚園教諭の方の給料が高くていいとも思っています。
(まあ,自分の給料も高く設定してもらえることに越したことはないですが。)
しかし,現実は,反比例。保育士さんや幼稚園教諭の方の方が「薄給」と耳にしたことがあります。

長くなってしまいました。
「子ども」と「大人」ということについて書きたいつれづれはまだまだあります。
やっぱりいい加減で,次の機会に。

4月は……

2014-04-09 05:51:45 | 日記
4月は、僕につながる?人たちがこの世に生を受けた日が多い。友人たちが、誕生日を迎えるのである。
一休禅師が「正月は冥土の旅の一里塚」と表現したことを考えると、ある意味、「死を意識して「生」(自分の命・生命)を生ききる」ということを考える日であるかもしれない。
こんなことを書くのは、うちの「「おっ、かない(家内)」が「死生観」って何?」なんて聞くからかもしれない。
それはさておき、「命」と「生命」。どちらも「いのち」と読むことがあるが、それぞれ表記が違うように意味が違うと、かなり昔に参加した日本国語教育学会で野地潤家先生(僕は、直接指導していただいたことはないけれど、そのお弟子さんが僕のお師匠なので勝手に)か倉澤栄吉氏が講演の冒頭で指摘されたことを思い出した。
「命」と「生命」の違いについても考えてみたいが、とりあえず程度で言えば、精神的なものと物理的・生物学的なものとの違いがあるように思う。
ところで、4月生まれに悪い人はいない。というより、いい人ばかりと言っておこう。
まずは、7日 西村滋先生(のはず)、そしてお釈迦様、ちょっと色っぽい話をすれば、青春時代?僕の胸を焦がした女性も。高校時代の剣道部の仲間で言えば、僕を含めて3人。
それにしても、想像もしなかった50歳という年齢が目の前に。う~ん。まだまだ子どもという気が。
いったいこれから何ができるんだろう?何をしたいんだろう?