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倭寇等が東アジア奴隷貿易を独占していた。

密貿易商をしていた倭寇等の海賊が東アジアにおける奴隷貿易を独占していた。
アジア人の奴隷貿易については倭寇に遡り、ポルトガル商人は新参者だった。前期倭寇は朝鮮半島、山東・遼東半島での人狩りで捕らえた人々を手元において奴婢として使役するか、壱岐、対馬、北部九州で奴隷として売却したが、琉球にまで転売された事例もあった。後期倭寇はさらに大規模な奴隷貿易を行い、中国東南部の江南、淅江、福建などを襲撃し住人を拉致、捕らえられたものは対馬、松浦、博多、薩摩、大隅などの九州地方で奴隷として売却された[8]。1571年のスペイン人の調査報告によると、日本人の海賊、密貿易商人が支配する植民地はマニラ、カガヤン・バレー地方、コルディリェラ、リンガエン、バターン、カタンドゥアネスにもあった[9]。倭寇の人狩りに加えて、古来から日本の戦場では戦利品の一部として男女を拉致していく「人取り」(乱妨取り)がしばしば行われており、乱妨取りや文禄・慶長の役(朝鮮出兵)により奴隷貿易はさらに拡大、東南アジアに進出し密貿易も行う後期倭寇によりアジア各地で売却された奴隷の一部はポルトガル商人によってマカオ等で転売され、そこからインドに送られたものもいたという。数少ないポルトガル商船の輸送力や需要、供給を考慮するなら、日本人奴隷の取引量自体はそれほど大きかったとは考えられないが、奴隷貿易のネットワークはポルトガル、アフリカ、ゴア、マカオにまで及び地理的には大規模だった[10][11][12]。
ポルトガル人が日本人に1543年に初めて接触したのち、16〜17世紀を通じ、ポルトガル船の乗員の取引の一部に日本人奴隷も含まれるようになり、ポルトガル本国を含む海外の様々な場所に売却された。[13][14]。多くの文献において、日本人の奴隷交易の存在が述べられている[15][16][17][18][19][20][21][22][23][24]。実際に取引された奴隷数については議論の余地があるが、反ポルトガルのプロパガンダの一環として奴隷数を誇張する傾向があるとされている。記録に残る中国人や日本人奴隷は少数で貴重であったことや、年間一隻程度しか来航しないポルトガル船の積荷(硫黄、銀、海産物、刀、漆器等)の積載量の限界、九州の人口、奴隷の需要、海賊対策のための武装、奴隷と貴重な貨物を離す独立した船内区画、移送中の奴隷に食料・水を与える等の輸送上の配慮の問題から、ポルトガル人の奴隷貿易で売られた日本人の奴隷は数百人以上の規模と考えられている[11][10][12]。
日本人の奴隷たちはヨーロッパに流れ着いた最初の日本人であると考えられており、1555年の教会の記録によれば、ポルトガル人は多数の日本人の奴隷の少女を買い取り、性的な目的でポルトガルに連れ帰っていた。日本マカオ間の定期航路の開通により規模が大きくなっていた奴隷貿易に対してイエズス会の宣教師たちは日本での奴隷貿易禁止の法令の発布を度々求めており、国王セバスティアン1世はカトリック教会への改宗に悪影響が出ることを懸念して、1571年に日本人の奴隷交易の中止を命令した[25][26]。1571年の人身売買禁止までの南蛮貿易の実態だが、1570年までに薩摩に来航したポルトガル船は合計18隻、倭寇のジャンク船を含めればそれ以上の数となる[27]。
ポルトガルの奴隷貿易で数百人以上の日本人、特に故郷から遠く離れた異国で働く水夫等を懐柔するための奴隷として女性が売られたとされている[10]。日本人の女性奴隷は、日本で交易を行うポルトガル船で働くヨーロッパ人水夫だけでなく、黒人水夫に対しても、妾として売られていた、とポルトガル人イエズス会士ルイス・セルケイラ (Luís Cerqueira) が1598年に書かれた文書で述べている[28]。ポルトガル人がマレー人やアフリカ人の奴隷を所有し、その奴隷が日本人の奴隷を所有するというように、他の奴隷の奴隷になった者もいたという[4][5]。
天正十四年(1586年)『フロイス日本史』は島津氏の豊後侵攻の乱妨取りで拉致された領民の一部が肥後に売られていた惨状を記録している[29]。『上井覚兼日記』天正14年7月12日条によると「路次すがら、疵を負った人に会った。そのほか濫妨人などが女・子供を数十人引き連れ帰ってくるので、道も混雑していた。」と同様の記録を残している。天正十六年(1588年)8月、秀吉は人身売買の無効を宣言する朱印状で
豊後の百姓やそのほか上下の身分に限らず、男女・子供が近年売買され肥後にいるという。申し付けて、早く豊後に連れ戻すこと。とりわけ去年から買いとられた人は、買い損であることを申し伝えなさい。拒否することは、問題であることを申し触れること— 下川文書、天正十六年(1588年)8月
と、天正十六年(1588年)閏5月15日に肥後に配置されたばかりの加藤清正と小西行長に奴隷を買ったものに補償をせず「買い損」とするよう通知している。同天正十六年(1588年)、同様のことを島津家にも命じている。こうした乱妨取りによって拉致された奴隷の一部がポルトガル商人、倭寇に転売された可能性はある。
1587年(天正15年)6月18日、豊臣秀吉は九州平定の途上で、当時のイエズス会の布教責任者であった宣教師ガスパール・コエリョとの夕食後、重臣達の御前会議で施薬院全宗が寺社破壊や奴隷貿易等を行っていると讒言をし高山右近に棄教をせまったが殉教を選ぶと拒否されたため、コエリョを詰問した[30]。翌6月19日、キリスト教の布教を禁じる『吉利支丹伴天連追放令』(バテレン追放令)を発布した[31][32]。バテレン追放令で奴隷貿易を禁じたとされるが、実際に発布された6月19日付けのバテレン追放令には人身売買を追求する文が(6月18日付けの覚書から)削除されており、追放令発布の理由についても諸説ある[33][34][35][36][37][38][39]。バテレン追放令後の1591年、教皇グレゴリー14世はカトリック信者に対してフィリピンに在住する全奴隷を解放後、賠償金を払うよう命じ違反者は破門すると宣言、在フィリピンの奴隷に影響を与えた。
「人身売買#日本」も参照
文禄・慶長の役では、臼杵城主の太田一吉に仕え従軍した医僧、慶念が『朝鮮日々記』には乱妨取りで捕らえられた男女老若を買い取って引き連れる人商いを目撃した様子を記録しており、戦渦により大量の奴隷が発生した様子を記録している[40]。渡邊大門によると、最初、乱取りを禁止していた秀吉も方向転換し、捉えた朝鮮人を進上するように命令を発したとされ[41]多聞院日記によると拉致された朝鮮人の女性・子供は略奪品と一緒に、対馬、壱岐を経て、名護屋に送られ奴隷供給を飽和させた[42]。薩摩の武将・大島忠泰の角右衛門という部下は朝鮮人奴隷を国許に「お土産」として送ったと書状に書いている[43][44]。こうして乱妨取りされた朝鮮人の一部は、日本人の奴隷商人からポルトガル商人に転売されたという[45][46]。 欧米の一部歴史家は、秀吉はポルトガル人による日本人奴隷売買を阻止した一方で、秀吉自身も乱妨取りによって拉致した朝鮮人の国内外での人身売買を誘発した面があることを指摘している[47][48][49]。
1596年(慶長元年)、長崎に着任したイエズス会司教ペドロ・マルティンス (Don Pedro Martins) はキリシタンの代表を集めて、奴隷貿易に関係するキリシタンがいれば例外なく破門すると通達している。[50]
ポルトガルの首都リスボンには少なくとも1540年には中国人の奴隷がいた複数の記録がある[51]。現代の歴史家によると、中国人が初めてヨーロッパを訪れたのはポルトガル人侵入者によって、おそらく中国南部の沿岸で奴隷にされた中国人の学者がポルトガルに連れて行かれた1540年(あるいはその数年後)という。その中国人はポルトガルの歴史家ジョアン・デ・バロスに購入され、共に中国語の文書をポルトガル語に翻訳する作業に従事したという[52]。
16世紀のポルトガルにおいて中国人奴隷(人種的な区別の文脈であるため日本人奴隷も含む)の数は「わずかなもの」であり、東インド人、改宗イスラム教徒、アフリカ人奴隷の方が圧倒的に多かった[6]。1562年10月23日に





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