ことばと学びと学校図書館etc.をめぐる足立正治の気まぐれなブログ

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「司書教諭資格付与科目」の授業実践を共有する連続シンポジウム、第1回は3月6日(日)です

2016年02月10日 | 知のアフォーダンス

 

 先にお知らせしたとおり、この3月から、司書教諭資格付与のための必修科目として司書教諭講習規程に定められる5科目について、毎回一科目を取りあげて教育実践を共有する会を始めます。以下、第1回目のご案内と第2回以降の予定を記しておきますので、関心のある方はご自由においでください。赤字部分を加筆・訂正しましたので、ご注意ください。2016.7.19)

主催:立教大学司書課程
問い合わせ:中村yurikon#rikkyo.ac.jp
(#を@に変えてメールを送信してください)

「司書教諭資格付与科目」の授業実践を共有する連続シンポジウム

第1回「学校経営と学校図書館」(終了しました)

 日時:3月6日(日)13:20-16:00

 場所:立教大学池袋キャンパス 5209教室 (5号館2階、キャンパスマップの右上)

 プログラム:

 ・導入「司書教諭養成の戦後史」(中村百合子)

 ・パネルセッション

 「学校経営と学校図書館」の教育実践をめぐって(足立正治、中村百合子)

 ・フロアとのディスカッション

 第2回以降に取りあげる科目と日時、発表予定者は下記のとおりです。

第2回:「学校図書館メディアの構成」(終了しました)

 日時:5月29日(日)13:15-16:00

 発表予定:青山比呂乃、中山美由紀、吉田右子

 場所:立教大学池袋キャンパス(1104教室)

第3回:「読書と豊かな人間性」

 日時:7月30日(土)13:15-16:00

 発表予定:朝比奈大作、野口久美子、平井むつみ

 場所:立教大学池袋キャンパス(7201教室)

第4回:「情報メディアの活用」

 日時:9月24日(土)13:15-16:00

 発表予定:中島幸子、森田英嗣、今井福司

 場所:大阪教育大学天王寺キャンパス 西館第9講義室

第5回:「学習指導と学校図書館」

 日時:11月20日()13:15-17:30(終了後、懇親会)

 発表予定:足立正治、家城清美、中村百合子

 場所:大阪教育大学天王寺キャンパス 中央館416教室 


趣旨:
 学校図書館司書教諭の養成は、学校図書館法第5条および司書教諭講習規程に定められており、戦後をとおして、「講習」という形で行なわれてきた。各地の大学で司書教諭資格付与の課程が置かれたが、資格付与は、所定の科目を修めた学生について講習実施大学に届け出ることで行なわれている。日本図書館協会図書館学部会が2003年度について調査した際には、司書教諭資格取得者は14,668名で、大学での取得者が7,862名、短大が312名、通信教育が432名、司書教諭講習が7,062名であった(日本図書館協会図書館学教育部会編『日本の図書館情報学教育2005』同協会, 2008.)。また、司書教諭講習の受講生の過半数は現職教員ではないかと、教授経験者の実感からは推測されている。このように、全国のさまざまな機関で、教員免許状の取得が前提となっているという以外の背景も多様である受講生に対して、ひとつの司書教諭資格を付与するために、どのような教育実践が行なわれているのか、これまで十分な情報共有と教育内容の共通化、質向上の努力がされてこなかったのではないかという反省のもとに、このシンポジウムを企画した。

 

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(予告)「司書教諭資格付与科目」の授業実践を共有する連続シンポジウムをはじめます。

2016年01月15日 | 知のアフォーダンス

 

 下記のとおり、司書教諭資格付与のための必修科目として司書教諭講習規程に定められる5科目について、毎回、1科目を取りあげて、教育実践を共有する会を始める計画を立教大学の中村百合子さんと立案中です。具体的な日程と教室、プログラムの詳細などがきまりましたら、各方面に告知するとともに、このブログでもお知らせしますので、関心のある方は心づもりをしておいてくだされば、ありがたいです。

主催: 立教大学司書課程

場所: 立教大学池袋キャンパス

時期: 2016年3月から隔月開催、全5回(土曜日か日曜日の午後)
     初回は3月6日(日)の午後(13:10-16:00)を予定しています。

参加: 関心のある方はご自由においでください。事前申込は不要です。

科目配当: 下記の順にとりあげます。

  第1回:「学校経営と学校図書館」(3月)
  
第2回:「学校図書館メディアの構成」(5月)
  
第3回:「読書と豊かな人間性」(7月)
  
第4回:「情報メディアの活用」(9月)
  
第5回:「学習指導と学校図書館」(11月)

進め方: 毎回2名または3名のパネリストが各自の授業実践を共有してお互いに話し合った  のち、フロアをふくめて全体で話し合います。毎回2時間程度を見込んでいますが、初回と最終回は、導入とまとめのために長めの時間を設定します。

趣旨: 学校図書館司書教諭の養成は、学校図書館法第5条および司書教諭講習規程に定められており、戦後をとおして、「講習」という形で行なわれてきた。各地の大学で司書教諭資格付与の課程が置かれたが、資格付与は、所定の科目を修めた学生について講習実施大学に届け出ることで行なわれている。日本図書館協会図書館学部会が2003年度について調査した際には、司書教諭資格取得者は14,668名で、大学での取得者が7,862名、短大が312名、通信教育が432名、司書教諭講習が7,062名であった(日本図書館協会図書館学教育部会編『日本の図書館情報学教育2005』同協会, 2008.)。また、司書教諭講習の受講生の過半数は現職教員ではないかと、教授経験者の実感からは推測されている。このように、全国のさまざまな機関で、教員免許状の取得が前提となっているという以外の背景も多様である受講生に対して、ひとつの司書教諭資格を付与するために、どのような教育実践が行なわれているのか、これまで十分な情報共有と教育内容の共通化、質向上の努力がされてこなかったのではないかという反省のもとに、このシンポジウムを企画した。

*なお、この計画については、中村百合子さんのブログもご参照ください。

 

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探究学習における省察(reflection)と協同(collaboration)-第8回学校図書館自主講座のご案内

2016年01月12日 | 「学び」を考える

 

 1月10日に行われた「学校図書館自主講座特別セミナーin神奈川」は、横浜の神奈川学園中高等学校図書館をお借りして、30名を超える参加者のみなさんとともに有意義で楽しいひとときをすごすことができました。休日にもかかわらず、朝早くから会場の準備をして私たちを迎えてくださった図書館スタッフの皆さんと、学校図書館とのコラボレーションによって組み立ててこられた教育実践について丁寧にお話しくださった先生方に心から感謝いたします。次回の自主講座では、この日のセミナーを振り返り、良かった点だけでなく、なぜ良かったのかを掘り下げ、さらなる疑問点や今後の課題についても考えたいと思います。
 ということで、盛りだくさんの第8回学校図書館自主講座(神戸)は下記のとおり行います。関心のある方は、おいでください。

日時:2016年1月31日(日)午後1時-4時30分

場所神戸市勤労会館 407号室

参加費:会場費その他の必要経費(参加者数によって異なりますが、一人300~500円程度)

問い合わせと参加申し込み:はじめて参加される方は下記までメールでお知らせください。

  学校図書館自主講座事務局 holisticslinfo#gmail.com (#を@に変更して送信してください)

プログラム:

はじめに:「省察とは何か」 足立 正治

 近年、ジョン・デューイの省察的(反省的)思考(reflective thinking)やドナルド・ショーンの省察的実践(reflective practice)が注目を集めています。古くは、ルネ・デカルトのMeditations on First Philosophyにも『省察』という訳語が充てられています。一方でreflectionには、反省、内省、熟考などといった訳語が充てられることもあります。いったい「省察(reflection)」とは何か。どうして、いま注目されているのか。家城先生のご発表に先立って、さまざまな活動分野で基本となる「省察」という概念を、クリティカル・シンキング(批判的思考)とも絡めながら整理したいと思います。

1.「探究学習に見られた反省的思考について-10年間の実践活動より」 家城 清美(同志社大学嘱託講師)

   -発表の概要と内容は下記をご覧ください-

(休憩)

2.「学校図書館自主講座特別セミナーin神奈川」を振り返る 参加メンバー

問題提起:「探究学習の成果をどのように評価するか」 足立 正治

 観察やポートフォリオによって探究のプロセスを評価するだけでなく、パフォーマンスや作品として発表された探究の成果をとおして、探究の目的やプロセス、取り組みの姿勢、学びの質などを評価し、今後の探究活動に活かす方法について、今後、皆さんの経験を持ち寄ってご一緒に考えたいと思います。(この問題提起は、時間の都合で次回に回すこともあります)


「探究学習に見られた反省的思考について-10年間の実践活動より」

Ⅰ 発表概要

 1998年の学習指導要領改訂により、同志社女子中学校・高等学校でも総合的な学習の時間が導入された。同志社女子中学・高等学校では図書・情報センターを活用した学習であった。高校3年を中心に以前より、探究学習には取り組んでいたが、中学1年から全校で、探究学習に長期期間取り組むのは初めてだった。2002年から2011年の10年間、全学年の総合的な学習の時間に司書教諭として参画し、担当教員と協働作業をしてきた中で、教員の想像を超えるような生徒の言動に巡り合うことがあり、印象深く今も記憶に残るものがある。当時どのように表現すればよいか戸惑ったものが、この自主講座の番外編としての読書会でJ・デューイの著書を読み進める中で、生徒たちの行動を言い表す言葉を見つけた。
 つまり、生徒の言動は反省的思考による結果だったと思い当たったのである。今回、10年にわたる総合的な学習の時間で、特に生徒の情報探索行動での反省的思考に焦点を当て、発表を試みる。

Ⅱ 発表内容

  1. はじめに 反省的思考と省察的思考―新たな訳語
  2. 同志社女子中学校・高等学校の総合的な学習の時間の概要
  3. 事例 中学2年
  4. 探究課題
  5. 授業計画―基礎から発展へ
  6. 担当教師と司書教諭の支援内容
  7. 生徒の授業中の様子
  8. 司書教諭のAssessmentに見られた問題となる生徒の情報探索行動と司書教諭による注意喚起
  9. 生徒の反省的思考による言動
  10. 他の学年に見られる反省的思考による言動
  11. 反省的注意を生み出す環境づくりとその要因
  12. まとめ

 

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学校図書館と一般意味論:年頭に去来する想い

2016年01月05日 | 知のアフォーダンス

 

「この国はどこへ向かっていくのか? 不安な気持ちにかられる戦後70年の年を越しました」

 1970年代に共に一般意味論への道を歩みはじめた友人から届いた年賀状の書き出しである。昨今の政治的情況ばかりでなく社会のあまりにも性急な変わりように、自分もまったく同じ気持ちで新年を迎えた。それは国際社会に目を転じても変わらない。この世界は、そして人類は、いったいどこへ向かっていくのだろう?
 彼女はつづける。「そのような時を経つつも、いのちの大いなるうねりは、人間の思惑をはるかに越えたところで継続していきます。虚しさに呑み込まれず、ささやかな日々の営みに思いを込め、いとおしみながら今年も過ごすことができるよう、祈るばかりです」
 そう、「虚しさに呑み込まれず、ささやかな日々の営みに思いを込め」て生きることが、狂気への暴走を抑制し、世の中を正気に保つ力となって「いのちの大いなるうねり」に合流することを信じたい。


 あらためまして

みなさん、明けまして、おめでとうございます。

冒頭に紹介した友人の年賀状に触発されて、今日は、2016年を迎えて去来する私の想いを綴ることにします。

 定年退職して早や10年がすぎようとしている。大学を卒業すると同時に高校の教員となり、昨年7月に大学の授業を終えるまで、50年以上も教職をつづけてきた。仕事を辞めた当初は寂しさもあったが、ひとつ肩の荷を下ろせたことが爽快でもあった。そして、多少なりともゆとりをもって日々の営みのひとつにとつに思いを込めることができるようになった。好きな本を読み、自分で三度の食事の支度をし、気ままに出歩き、音楽や美術、落語などを楽しむ機会も多くなった。人と会うことも少なくない。若い友人たちと勉強会や読書会もつづけている。だが、最近、一抹の不安がつのりはじめた。このままの生活をつづけていていいのだろうか。何か肝心のものが足りない。
 ふと思いついて、5年前に中村百合子さんたちが、ぼくのライフヒストリーを聞いて、つくってくださった一冊の本を取り出してきた。『Here Comes Everybody-足立正治の個人史を通して考える教育的人間関係と学校図書館の可能性』(自費出版)。長ったらしいが、私の人生の節目となった2010年のトークセッションに込めた想いをタイトルにした。あのとき、自分の歩んできた道を振り返って考えたことは、その後の生き方をどのように方向づけたのか。それを再確認することで、いま感じている「もの足りなさ」を払拭する手がかりがつかめるかもしれない。そんな想いでページをめくっていると、土居陽子さんが寄稿してくださった「図書館~ひろば~コミュニケーション~一般意味論」という文章が目にとまった。確固たる信念や目的があるわけでもなく、その時々を気まぐれに生きてきた私の人生を象徴するような中途半端でとりとめのないエピソードのなかから、土居さんは4つのキーワードを抽出して、つなげてくださった。以下、その文章の一部を引用させていただく。(以下、ページ数はすべて上掲書)

-甲南の図書館自体が、学習の場であると同時に学校の中の「ひろば」として、心にゆとりを持って自分を取り戻す場、「何かいいことがありそうだ」と期待できる場になっているということはもちろん、あの会も、足立氏を中心にした様々な繋がりの人が集う「ひろば」であった。学校図書館にかかわっていても普段は違った研究の場を持っている人との交流、学校図書館とは直接関係のない人たちとの出会い、それらをとおして新しい刺激を受け、世界が広がった-(p.131)

 「ひろば」は、子どものために大人が用意してあげるものであるよりも、むしろ、わたしたち大人こそが必要としているのではないか。ゲストとして一般意味論のトークとワークをしてくださった片桐ユズルさんも、あの日のセッションをこう評してくださった。

-ひろばでよかったですよ。最近はひろばというものが減ってきました。特殊化、専門のコミュニティになってきています-(p.80)

 土居さんは、図書館が「ひろば」として機能した事例をいくつか挙げた上で・・・

-どの事例にもその陰に多くのコミュニケーションと資料や情報の提供があったことは想像に難くない。一人ひとりの一言を、その要求は言うまでもなく、言葉にならない思いまでをすくい上げる「人」が図書館にいたからこそ、図書館が「ひろば」になりえた-(p.133)

 そして、ご自身の経験を振り返って・・・

-コミュニケーションは大切だけれど、難しい。私自身、単に言葉と言葉のやり取りで終わったり、同じ言葉を用いながらお互いにイメージするものが違っていたり、本音で話し合えなかった苦い経験がある-(p.133)

 土居さんは、片桐ユズルさんのトークとワークをとおして、この日、はじめて触れた一般意味論を次のようにとらえておられる。

-私たちが認識できることは現実のごく一部であり、ことばで表現できることには限界がある。条件によって、立場によって、認識の違いがあり、それもまた全てをことばで表現することはできない。そしてことばで表現された認識をもとに新たな認識が生まれるという繰り返しが行われているわけで、常に表現されない現実が隠れていることを意識しなければならない-(p.133)

 科学認識論(エピステモロジー)を日々の営みに活かして正気で生きる道を探るために開発された一般意味論の体系を身につけることによってコミュニケーションとクリティカルシンキング(批判的思考)の力を育むことは、あらゆる人間活動の基盤となるだろう。

 土居さんの文章は、つぎのように結ばれる。

-一般意味論を意識することがコミュニケーションを円滑にし、図書館を「ひろば」として発展させる大きな力になると思う‐(p.133)

 「図書館」を軸にして学校教育を支えてこられた土居さんと、「一般意味論」をよりどころにさまざまな活動をおこなってきた私は、「ひろば」と「コミュニケーション」というキーワードを介してつながっている。そう考えると、学校図書館の人たちとともに学校教育の在り方を問い直していくことと、一般意味論のさらなる可能性を拓いていくことは、現職を退いたこれからも私に課せられたライフワークあるいは使命といえるかもしれない。それは、老いてもなお自分を拡張し、人として成長をつづけるいのちの営みでもある。
 まずは土居さんのメッセージに励まされて、目前の学校図書館自主講座とジョン・デューイの読書会に仲間とともに力を注ぐことにしよう。そして、一般意味論については、2007年のブログに「近いうちに論じる」と書いたままになっている、サミュエル・ボア(Samuel Bois “The Art of Awareness”)の認識論的プロフィール(p.180)の第5段階「参加」について、そろそろ自分の考えをまとめる時期にきている。
 個人主義的な生活サイクルに埋没しかけていた私の前に、世代を超えた協同探究への参加の道が開かれている。

つながりを活かす学校図書館

 

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中村百合子編『学校経営と学校図書館』(樹村房、2015.12)を読む

2015年12月16日 | 知のアフォーダンス

 

 ほぼ20年来の知り合いである中村百合子さんが「学校経営と学校図書館」のテキストを出版されたというので、さっそく読ませていただきました。

学校経営と学校図書館 (司書教諭テキストシリーズII)
クリエーター情報なし
樹村房

 以下に私なりにとらえた本書の際立った特徴のいくつかを紹介させていただきます。

入念につくりこまれたテキストである

 全体の構成、章の配置はもちろんだが、章の間のつながりや、前後の記述の関連性にも配慮が行き届いている。各章の最初には、前章で学んだこととこの章で学んでほしいことつなぐ簡潔な導入がついており、本文では、ただ概念や事柄を記述するだけでなく、それらをとらえる視点や考え方、他の事項との関連にも言及されている。それによって、概念や事柄の相互の関連が読者(=学習者)の内面に波紋のように広がり、複雑な関係性の全体像を把握しやすくなるだろう。

 章をまたいでの相互参照とくりかえしが多いにもかかわらず、それを冗長と感じさせないのは、テキストの語り口によるのだろう。学習事項の羅列によって必要事項を一方向的に伝達するのではなく、理論や事実、観点を様々な角度から繰り返し丁寧に説明した上で、そこから先は読者(=学習者)が自分で考え、議論することを促す。

 本書は、編集者があらかじめ教えたい項目を提示し、複数の執筆陣が章ごとに分担して、それぞれの項目の解説記事を書くというスタイルをとっていない。図書館情報学と教育哲学という専門分野の異なる二人の研究者によって執筆されている。全体の編集と学校図書館に関わる部分の執筆は、もちろん図書館情報学の中村さんが担当しておられるが、これからの学校図書館の存在理由を支える基本的な理論や考え方、すなわち21世紀における知と学び、学校教育とメディア環境を展望する部分は教育哲学者である河野哲也氏に委ねられている。河野氏が担当された第2章から第4章までの記述は、本書の全体にわたって様々な形で参照され、具体的な形でつながって全体としての理解を深めるように仕組まれている。このような連携が、まったく違和感がなく行われ、一貫したメッセージを読み取ることができるのは、お二人が同じ大学の教員として日頃から対話をとおして育んでこられた同僚性が大きく作用しているのだろう。

 ちなみに私は、本書を読み終えた直後の12月1日に、その印象を伝えるために以下のようなツイートをした。
「これからの学校教育に欠かせない学校図書館と司書教諭の概念が学校図書館研究者と哲学者のコラボによって開かれた」

理論に重点を置いたテキストである

 上に述べたように、本書は、学校図書館に関する知識を一方向的に伝える講義のような記述ではなく、読者(=学習者)の立場に立ってていねいに語りかけ、思考(探究)と議論を促すように配慮されている。とはいえ、けっして分かりやすいテキストではない。

 第1章「司書教諭になるための学習」では、司書教諭課程と学習にあたっての心構えとともに、理論的な学習の重要性が説かれている。とはいえ、つづく第2章「福島第一原子力発電所事故後の世界と新しい知的社会」で提起されている新たな知のとらえ方、考え方の枠組みを理解することは、とくに初めて学ぶ学生たちにとって容易ではないだろう。自分たちが思い描いていた学校図書館の勉強と、あまりにもかけ離れていると感じて、学習を断念してしまう学生もいるかもしれない。私の独断であえて言えば、この段階で初学者がこの章を深く理解することは困難だし、その必要もないだろう。ただ、ここで提起されていることがらを、理解困難な問題として自分のうちに刻み込んでおけばいい。よく理解できない概念や考え方に出会ったら、それを保持したまま読み進み、何度も繰り返し参照しながら時間をかけて理解を深めていくことこそが大切なのである。場合によっては、卒業して何年も(何十年も)経ってから、どこかで何かのきっかけに、ふと、学生時代にどうしても理解できなかったことを思い出して考えてみることだってあるかもしれない。教育とか学びとは、そういう息の長いものである。大学の授業であれば、授業担当者は学びのガイド役として、まず第2章のはじめに学生の意識や理解に応じた丁寧な導入と励まし、そして学習過程における適切な介入を心がけておけばいい。

 難解だった第2章も、第3章「これからの学校教育とあるべき学びの形」、第4章「メディアと人間の循環」へと進むにしたがって少しずつ具体的にイメージしやすくなっていく。この二章では、これからの学校教育の在り方と変革の必要性、そのためのメディア環境、そして探究と教育をサポートする「知の自律的循環」の場としての図書館の概念が提示されている。こうした下準備を経てはじめて読者(=学習者)は、第5章「学校の中の図書館」で記述されている学校図書館の理念へと導かれる。

歴史的観点に力を入れていることも本書の際立った特徴である

 第6章と第7章の二章にわたってアメリカと日本の学校図書館史をていねいに論じていることも本書の大きな特徴である。第8章「日本の学校図書館の現状」を理解し、学校図書館が抱える矛盾や問題を克服して新たな制度と実践を切り開いていくためには、歴史的理解が不可欠であることはいうまでもない。第2章-第4章で提起された「知」と「学び」と「メディア」に関する知見と第6章-第7章で示された歴史的考察という二つの軸は、長期的な学校図書館を展望するためにきわめて重要である。

 大学で学ぶことは、かならずしも今すぐに役立つ実践的な知識や技能である必要はない。現在の制度や実践をなぞることでも、理想を追求することでもない。もっとも必要とされるのは、社会にでて実務についたときに実際に経験する様々な矛盾を乗り越えて、新たな実践モデルを創出し、実行するための素地を培っておくことであり、広い視野と深い洞察力によって世界を観察し、考え、学び、変わりつづける姿勢を身につけておくことだろう。

 つづく第9章「学校図書館の目的と機能」を経て、第10章と第11章では、第5章-第9章で学んだ学校図書館の原理、基本理念、歴史的背景、目的と使命を踏まえて、それを現実化するための「サービス」と「教育」という、学校図書館の活動とその意義を展望できる。

組織的なマネジメントへの着眼

 ここまで学んできて学校図書館の役割と使命を理解し、意欲をもって学校図書館に関わりたいという期待をもったかもしれない読者(=学習者)は、第12章「学校図書館の担当者」で、学校図書館の職員制度の複雑な背景と、充て職として「学校図書館の専門的職務」を掌ることが期待されている「司書教諭」が置かれている状況を知って、その意欲が萎えるかもしれない。職員制度を根本から再検討することが喫緊の課題である(p.156)ことは理解できても、これから司書教諭資格の取得を目指す学生にとっては、実際に学校に就職し、与えられた条件の下で、具体的にどのようにすれば司書教諭としての職務を全うしていく道が開かれるのかが喫緊の課題であろう。

 理想と現実の溝を埋めるカギになるのがマネジメントの力である。組織の目的を達成するために、現実を見据え、目的をもって、現状を改善していく力といってもいい。その意味で、第13章で「学校図書館のマネジメント」という視点を提起しておられることは意義がある。

 マネジメントは基本的にマーケティングとイノベーションの二つ要素で成り立っている。学校図書館にあてはめていえば、マーケティングとは、利用者(教師・児童生徒)を知ることである。それは、単に利用者のニーズにこたえて利用を増やすために行うのではない。利用者を知って、学校図書館の「サービス」と「教育」を利用者に適合させることで、学校図書館の理念と使命を実現するために行うのである。利用者を理解し、学校図書館の目的と使命を明確にして、利用者に働きかけ、そのフィードバックを受けて自らの行為の結果を省察し、新たな意思決定と実践を行う。このマネジメント・サイクルは、学校図書館の自己変革(イノベーション)のサイクルである。同時に、それは学校図書館担当者にとっての学びのサイクルでもある。組織を有機的に機能させることは、人を有機的に機能させることであり、それには日常的なコミュニケーション(対話)を基盤とした同僚性の構築とフィードバックによる学習回路が開かれていること(⇒安富歩著『ドラッカーと論語』)が必要であろう。

 第3章に「児童・生徒が民主的に参加できる機会をより増やすように学校環境を再構成する必要がある」(p.40)とあるが、そのためにこそ、全体主義的な組織の在り方を批判してマネジメントの理論を構築したドラッカーに学ぶことは多い。

場所としての学校図書館

 学校という組織の中で学校図書館を機能させるには、学校図書館の担当者ばかりでなく利用者も含めた人と施設・設備、様々なメディアやツールなどが相互作用的に機能し、発展していく学習環境を構築する必要がある。そのためには、第14章の「学校図書館の設計」は、図書館を新築する場合だけでなく、改装やレイアウトの変更にまで広げて適用し、第12章、第13章とも関連させて統合的に学習環境のデザインを考える必要があるだろう。

 ちなみに、お茶の水女子大学の半田智久氏が提唱する「知能環境論」は、このような観点に立って学習環境を考えるヒントになるのではないか、というのが私の考えである。(注)

理論的探究をおこなう実践者を育て、長期的な展望をもって学校教育と学校図書館の変革をめざす

 そして、いよいよ最終章、第15章の「学校図書館研究と学校図書館の発展」というタイトルにも、学校図書館の発展は理論的な探究をともなう実践をとおしてこそ可能になるという、本書の一貫したメッセージが込められている。社会変化にともなう新しい知のありように対応する学校教育の担い手としての学校図書館が長期的な展望をもって語られている点で、本書は、これからの司書教諭養成のためのテキストの在り方に一石を投じるものだといえる。

(注)

知能環境論―頭脳を超えて知の泉へ
クリエーター情報なし
NTT出版

 

構想力と想像力ー心理学的研究叙説
クリエーター情報なし
ひつじ書房

 

知のアフォーダンスに満ちた場所(大学ラーニング・コモンズから考える「場所としての学校図書館」報告3)

「ディープ」な課題に向き合う図書館とは(”「調べるのが好き」が七割の社会”に想う)

専門職に求められるコミュニケーション能力をめぐって

 

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HERE COMES EVERYBODY (HCE From Finnegans Wake by James Joyce)

いま、ここに生きているあなたと私は、これまでに生きたすべての人、いま生きているすべての人、これまでに起きたすべての事象、いま起きているすべての事象とつながっていることを忘れずにいたいと思います。そんな私が気まぐれに書き綴ったメッセージをお読みくださって、何かを感じたり、考えたり、行動してみようと思われたら、コメントを書いてくださるか、個人的にメッセージを送ってくだされば嬉しいです。

正気に生きる知恵

すべてがつながり、複雑に絡み合った世界(環境)にあって、できるだけ混乱を避け、問題状況を適切に打開し、思考の袋小路に迷い込まずに正気で生きていくためには、問題の背景や文脈に目を向け、新たな情報を取り入れながら、結果が及ぼす影響にも想像力を働かせて、考え、行動することが大切です。そのために私は、世界(環境)を認識し、価値判断をし、世界(環境)に働きかけるための拠り所(媒介)としている言葉や記号、感じたり考えたりしていることを「現地の位置関係を表す地図」にたとえて、次の3つの基本を忘れないように心がけています。 ・地図は現地ではない。 (言葉や記号やモデルはそれが表わそうとしている、そのものではない。私が感じたり考えたりしているのは世界そのものではない。私が見ている世界は私の心の内にあるものの反映ではないか。) ・地図は現地のすべてを表すわけではない。 (地図や記号やモデルでは表わされていないものがある。私が感じたり考えたりしていることから漏れ落ちているものがある。) ・地図の地図を作ることができる。 (言葉や記号やモデルについて、私が感じたり考えたりしていることについて考えたり語ったりできる。)