アドキッセン中将との通信を終えたジョウはメディカルルームにいた。
シートに座るジョウの隣にはアルフィンが寄り添っている。保冷剤を手にして、彼のまだ腫れの引かない顔を抱きかかえるようにして冷やしてやっていた。
部屋の中にはニ人きりだった。通信が終わるとすぐ、タロスは自室に引き上げたし、リッキーとバードはまだやり残した仕事があるとかでメインブリッジにいた。
アルフィンは心配そうにジョウを覗き込みながら、さっきから何度も繰り返している台詞をまた口に載せた。
「薬飲まなくて大丈夫?横になったほうがよくない?」
同じ答えをジョウも口にする。
「いや、このままでいい。具合が悪いわけじゃないんだ」
「だって、こんなに熱いわよ」
ジョウの額に手を当ててアルフィンは言った。
「たいしたことはない。それより、気にならないか」
「何が?」
「タロスさ。様子が変だったろ」
「そう?」
「さっきの通信のときも上の空だったし、ミネルバに戻ってからずっとふさいでるように見える」
「そう言えば…」
「何かあったのかな」
タロスとマージのいきさつを知らないジョウは首を傾げるばかりだった。
アルフィンは帰艦してから欠落していた記憶を徐々に取り戻していた。それからずっとジョウの側から離れなかったので、正直、タロスの様子がおかしいことにも今まで全く気がつかなかったのだ。
自然と口を噤む。沈黙がおりてきた。
お互いの体温を感じながら、二人はしばらく言葉を探した。
「…アルフィン」
ややあって、ジョウが口を開いた。低く穏やかな声だった。熱のせいだろうか、少しくぐもって聞こえる。
「何?」
アルフィンは保冷剤を持っていた手を離し、ジョウの顔を覗き込んだ。
ジョウはシートにもたれ、アルフィンが側に立っているので、心持ちジョウが彼女を見上げることになる。
「タイラー、死んだよ」
ジョウは言った。回りくどい言い方は苦手だった。どうせいつかは話さなくてはならないことだ。
「…うん、知ってる」
懇意だった仲間の死を聞かされても動揺しないアルフィンを見て、ジョウはいぶかしんだ。アルフィンはそっと目を伏せた。
「あたし、タイラーが捕まるところ、見てたから」
「どこで?」
「クリスの部屋」
一瞬の躊躇のあと、アルフィンは言った。
「そうか…」
ジョウは俯くアルフィンの頬にかかる金髪に、そっと手を伸ばした。
そして言った。
「無事で、よかった」
指先で耳もとに触れた。柔らかい耳朶がジョウの手のひらにすっぽりと収まった。
アルフィンは目を伏せたまま、まつげの影をくっきりと頬に落としている。
ジョウは限りなく優しい声で続けた。
「もう大丈夫だ。クリスはいない。ヴァルハラも消滅した。何も心配しなくていい」
「…ん」
顔を上げ、アルフィンは頷いて見せた。笑っているのに、なぜか泣いているような表情だった。
「ひどいことを、されなかったか?ちゃんと眠れてたか」
クリスに監禁されていたアルフィンの心理的ダメージを、ジョウははかりかねていた。天使に身をやつしたあの悪魔の化身に、長期間にわたって拘束された、その恐怖と苦痛を思うと胸が痛んだ。
「平気よ」
アルフィンは肩をすくめた。そして、
「どんなにひどいことをされても、次々と人が殺されていくのを見せられても、こんなやつに負けるもんかって思ったの。あいつはせせら笑ったけど、あたしは必ずジョウが助けに来てくれるって信じてた。だから、何されたって平気よ。泣き言なんか言わなかったわ」
明るい口調でさばさばと答えた。
「…本当に?」
ジョウは念を押した。
「本当よ」
アルフィンはこくりと小さく頷いた。
ジョウはしばらくアルフィンをじっと見つめていたが、やがて目をそらした。
彼女の耳朶から手を離し、ゆっくりと立ち上がった。
そして、その身体を抱き寄せた。
「…ジョウ」
突然のことに、アルフィンは何が何だか分からず、ただされるがままになっていた。
アルフィンを掻き抱きながら、ジョウは続けた。髪の甘い香りが鼻先を掠める。知らず知らずのうちに、怒ったような口調になる。
「アルフィン、そんな風に言うのはよせ。
頼むから、言うな」
「…え…なに?」
アルフィンの声は、ジョウの胸につぶされてしまっている。
「他のやつにはどう言ったっていい。でも俺にはそんな風に言うのはやめろ。強がらなくていいんだ」
自分の声を、アルフィンの身体を通して聞いているような、他の誰かの台詞のような、不思議な感じがした。
「強がるな、って…」
惚けている状態からやっと醒めて、アルフィンが言った。
「何言ってるの、あたし、別に強がってなんか――」
アルフィンが軽く笑ってジョウから身を離そうとしたとき、ジョウと目があった。至近距離。漆黒の瞳が間近でアルフィンを捉えている。鋭いくせに、どこかしら甘い光を宿したそのまなざしに捕らえられたアルフィンは、言葉をのみ込んだ。それまで立っていた足場を何かが強引にさらっていくのを感じた。それは、圧倒的なものすごい力だった。逆らえない。
絶句した。
「――ジョウ」
アルフィンはジョウにすがりついた。
小さな子供がそうするように、全身で彼に抱きつく。
滂沱のように涙が頬を伝った。
「怖かった。――怖かったよう、ジョウ。ほんとにどうしたらいいのか、あたし、ほんとに分からなかった。
クリスも怖かったけど――そんなんじゃないの。そんなのよりもあたし、もう二度とこのままジョウに会えなかったらどうしようって、そればっかり考えてた。そっちのほうが何倍も何倍も怖かったの」
激しくむせびながら、切れ切れにそう言った。涙で顔がくしゃくしゃになっている。
ジョウは抱きつかれたことにはじめうろたえ、そして自分の腕の中で慟哭するアルフィンに目を移した。すぐにそのおもてには、なんともいえない表情が浮かんだ。ジョウはさらに腕に力を込めて、泣き止まないアルフィンを抱きしめる。
「どうしてもっと早くに来てくれないのよ。とってもとっても怖かったんだからね」
「ごめん。悪かった」
ジョウは目もとに笑みを浮かべて、ひとしきりアルフィンの髪を撫でてやった。
「本気で謝ってないくせに」
「謝ってるよ」
「じゃあなんで笑ってるのよ」
「いや…」
あんまし可愛くて。なんて死んでも言えないジョウは、口ごもった。
「なによ。言いなさいよ」
ジョウは、少し迷ってからあらぬ方向を見て、
「いや…はじめからそう素直に言えば、可愛いのに、と思ってさ」
と心とは裏腹のことを言った。
一瞬の空白。
そして、
「ジョウの馬鹿っ!」
アルフィンの右ストレートが、まだ傷いえぬジョウの顔面にクリーンヒットした。
ジョウをKOした後、メディカルルームを飛び出したアルフィンは、涙でかすむ目を擦りながら半ば駆け足で自室に向かった。
まだどきどきと心臓が高鳴っていた。別に本気で怒ったわけじゃなかった。怒り半分、照れ隠し半分で繰り出したパンチだった。そのことはジョウも分かってくれているはずだった。
そのとき、ブリッジのほうから足を引きずるようにして歩いてきたバードと会った。
「おっと」
涙目をしているアルフィンを見て、バードの小さな目がちょっとだけ見開かれる。
「どうした?大丈夫か」
「え、ええ。なんでもないわ。仕事は片付いた?」
動悸を押さえながら、アルフィンは言った。気のせいか、頬が熱い。
「ああ、まだなんかリッキーがやってるけど、俺は先に休ませてもらうことにしたんだ」
バードは自分の脚に巻きつけられたプラスチックギプスを顎で指し示した。苦々しい、自嘲するような表情が過ぎる。
アルフィンは眉をひそめた。
「たいへんね。無理しないで」
「ああ。――ジョウは?」
「メディカルルームで寝てるわ」
嘘ではなかった。バードは頷いた。
「だったらいい。ジョウも今までだいぶ無理をしてきたからな。休養が必要だよ」
「うん…」
実直そうなバードの目に、ふと何かを思い出したような色合いが浮かんだ。
彼はアルフィンが瞬きするほどのあいだ、逡巡し、そして口を開いた。
「アルフィンももう休むのかい」
「ええ、そのつもりだけど」
「そうか…」
ひと呼吸、おいた。で、切り出した。
「実は、ちょっとアルフィンに話しておきたいことがあるんだ。別に急ぐ話じゃないんだが…」
珍しく歯切れが悪い。
「ちょっと、いいかい?」
「話って、なあに」
バードの前にコーヒーカップを置いてから、アルフィンは向かいの椅子に腰を下ろした。
静かな場所で話したいというバードの意向で、アルフィンはリビングではなく、キッチンを選んだ。ここならば夜は誰も来ることはない。
バードはしばらくコーヒーに手をつけずに、黙ってアルフィンを見つめた。
目の前にいるアルフィンは、飾り気のないクラッシュジャケットを着ていようが、涙に濡れた赤い目をしていようが、ひじょうに魅力的な少女として映った。以前会ったときは、その華やかな美貌が先にたつ印象を受けたものだが、今はどこかしら、内側から滲み出るようなしなやかさを感じた。
クラッシャーとして様々な経験をしてきたからだろう―――特に、今回のクリスの事件の与えた影響は大きいとバードは思った。
淹れたてのコーヒーの湯気にかすむアルフィンは、困ったように小首をかしげている。バードがいつまでも話を切り出さず、自分をじっと見つめているだけなので、居心地が悪かった。
「もしかして、タロスのこと?話って」
沈黙を嫌って、アルフィンから切り出してみた。それぐらいしか心当たりがなかった。
「タロス?いや、違うよ」
「あら」
あっさりと否定されて、アルフィンは肩透かしを食らった。
バードはようやく彼女から視線を外し、カップに手を伸ばした。
「ジョウのことさ」
「ジョウの?」
「ああ…」
コーヒーを飲む仕草もなんだかぎこちない。一口含んでから、苦さのためか、それとも傷が痛むのか、少し顔をしかめて見せた。
「今のクリスの事件で、ジョウと一緒に行動して分かったことがある」
クリス、という名前を聞くと、自分でもはっきりと身体が強張るのをアルフィンは感じた。その表情が曇った。
バードは言葉を慎重に選んで、一語一語、区切るようにして言った。
「ジョウは、ほんとにあんたを大事にしてるな」
「え…」
アルフィンはきょとんとした。
「正直、たまげたぜ。あんなに見境のないジョウははじめてだった。誰かから聞いたかい、あんたが拉致されてからのジョウの様子を」
バードの言葉にアルフィンは首を振った。ほのかに、顔が赤い。
「聞いといたほうがいいぜ、ちゃんと」
「…いま、聞かせて」
「だめだ」
「なぜ?」
「泥棒に追い銭はやらない主義なんだ」
「…?」
わけがわからない、と怪訝そうにしているアルフィンを見て、バードは笑った。
仕方なく、話し始めた。
「あんたを取り戻すためなら、手段を選ばなかったよ、ジョウは。無謀に敵に向かっていった。勇敢に、じゃないぞ。無謀にだ。
正直言って、あきれたね、俺は。目の前に立ちはだかるものは、皆殺しにしかねない勢いだった」
アルフィンは、
「そんな…大袈裟な」
とかぶりを振った。
「大袈裟なんかじゃないさ。ほんとのことだぜ。
相手のアマゾナスが女だろうが、同じクラッシャーだろうが関係ない。蹴散らした。
想像つくか、そんなジョウが?」
バードの話に耳を傾けていたアルフィンは、ゆっくりとその意味を咀嚼するように瞬きした。
「ほんとはなあ、ここだけの話、ジョウはヴァルハラなんかどうでもよかったんだと思うぜ、俺は。
あんたさえとりもどせば、きっとそれでよかったんだ」
ぼそぼそと聞き取りにくいほどの小声でバードは言った。
「…まさか」
アルフィンは信じられないでいる。まさか、ジョウが。
「そういう戦いを、ジョウはしていた」
そう言いきるバード。
アルフィンは身じろぎも出来ない。
やがて、その群青の瞳から、大粒の涙がひとつ、零れた。
静かに、滑らかな頬を伝って下りていく。それは、さっきジョウの腕の中で流した涙とは、まったく別の種類の涙だった。
「俺は思ったよ…ああ、ジョウはほんとうにあんたのことを大事に思ってるんだなあ、って。柄にもなく、自分の若い頃なんかを思い出したりしてさ」
バードはその、この世でもっとも美しい涙に―――人が幸福感に満たされて流すときの涙に見惚れながら、限りなく柔らかい口調でそう言った。
「…本当?」
涙はテーブルの上のソーサーに当たって弾けた。
「本当に、そう思う?」
アルフィンは訊いた。
「…ああ」
バードが頷くと、アルフィンはこぼれるような笑みを満面に浮かべた。
幸せだった。
「―――でもな」
不意にバードの声がトーンを変えた。
「今回はたまたまさまざまな事がうまくかみ合って事件も無事解決したが、いつもこう上手くいくとは限らない。だろう?」
バードに見つめられて、アルフィンは頷いた。
「そうね」
「別に無茶をすることが悪いって言ってるんじゃない。誤解しないでくれよ。
男がときには身体を張って誰かを守ったり、命を賭けたりすることがどれだけ大事なことか、そんなこたあ、あのとんちきなタロスだって知ってる。
でもな、ジョウはチームのリーダーだ」
バードは語調を強めた。
鋭いまなざしに見据えられて、アルフィンはどきっとした。
「クラッシャーってのは世間じゃ荒っぽいだの、無鉄砲だの、とかく言われがちだが、そりゃ間違いで、ほんとのとこ冷静さと正確な判断力が何より不可欠な仕事だろ。
あんただって分かるはずだ。それがなきゃ、ただの命知らずの馬鹿野郎だ。あっという間にお陀仏になっちまう。
ジョウは生粋のクラッシャーだ。天賦の才能に恵まれ、若いうちから着実にキャリアも積んで、いまや押しもおされぬランク筆頭だ」
そこで、バードの表情がふと和らいだ。
「おやっさんも、さぞかし鼻が高かろうぜ」
アルフィンの脳裏に、一人の白髪の老人の顔が浮かんだ。
アルフィンは、バードの言っているのがジョウの父親、ダンのことだというのは分かったが、面識がないのでどう反応すればいいかためらわれた。知っていることといったら、昔彼がダンとチームを組んでいたことと、ダンが評議会の現議長だということぐらいだ。
「ジョウは俺が知る中でも超一流だ。大胆だし、度胸も申し分ない。しかも腕がいいときてる。
少なくとも現役のクラッシャーでは最高だ」
バードがまるで我がことのように誇らしげにそう言った。
アルフィンも頷く。
と、そこでまたバードの表情が硬くなった。
「でもな、アルフィン。あんたが絡んでくると、話は別だ。
ジョウはあんたのためだとそういったのを全部かなぐり捨ててしまう。冷静さも判断力もなくして、ただの一人の男になってしまうんだ。
俺はそれが怖い」
バードの言葉に、アルフィンの顔色が変わった。
バードはなおも重ねた。
「今回の件でそれははっきりした。あんたがらみのトラブルが起こると、ジョウはどんな無茶も平気でやる。後先を考えずに行動し、自分のことはおろか、他のチームメイト―――タロスや、リッキーのことすら省みなくなる。
クラッシャーとして致命的だ。リーダーとしても失格だと、俺は思う」
アルフィンは言葉もなくそれを受け止めた。視線はバードの手元のカップのあたりに据えられている。
ややあって、これだけ口にした。
「あたしが、ジョウの足を引っ張ってるっていうこと…?」
顔色が紙のように白い。囁くような小声が、バードの耳に届いた。
バードは首を横に振って見せた。
「そうじゃない。ジョウにはあんたが必要だ。あんただってそうだ。
だが、俺は思うんだ。このままあんたがジョウと同じ船に乗っていっしょに仕事をしていくのは、必ずしもお互いのためにならないかもしれないってな」
「……」
バードの言葉が緩やかに時間をかけてアルフィンの心の中に入っていくのが手に取れるようだった。ふたつの瞳の表面が次第に涙の薄い膜でうっすらと覆われていく。
バードはテーブル越しにアルフィンの肩に手をかけた。
「アルフィン、これだけは言っておく。
あんたはジョウの“アキレスのかかと”だ」
「…アキレスのかかと?」
アルフィンは繰り返した。
「そうだ。
ジョウのたった一つの弱点だ。大事な大事な、な」
バードは言った。
アルフィンはそれを聞くと、きゅっと唇を噛み締めた。
涙を堪える。
バードはくずおれそうなアルフィンの肩をしっかりと支えながら続けた。
「アルフィン、あんたにどうしろなんて言う権利は俺にはない。そんなこと言うつもりもない。
でもそれだけは憶えておいてほしい。あんたがそのことを憶えてるってだけで、これから先、万が一何かあったときにジョウを助けることができるかもしれん。ジョウの力になることができるかもしれん。
俺は、そう思う」
口調がいたわりに満ちた、優しいものになっていることにバード自身、気がついていなかった。
「あたしが、ジョウの力に…?」
「そうだ」
バードは間近でアルフィンの美しい顔を見つめた。自分の娘と言っていいほどの年頃の少女だったが、大きな蒼い瞳に真正面からひたと見つめられると、柄にもなく心が騒いだ。目の前のアルフィンはとてもはかなげで、ジョウがなぜこの娘のことになるとあんなに見境がなくなるのか、同じ男として何となく分かるような気がした。
「俺の言っていることが、分かるか」
バードの問いかけに、アルフィンは小さく頷いた。
そっと涙を拭う。顔を上げた。
「分かるわ。多分」
「それならいい」
バードは笑った。今夜初めて見せた笑顔だった。
ぽん、と軽くアルフィンの肩を叩く。
「じゃあ、俺はもう行くわ。コーヒー、ご馳走さん」
テーブルを支えにして立ち上がった。緩慢な動作だった。アルフィンが手を貸そうとするのを制して、バードは言った。
「おっと、今日のことはジョウには内緒だぜ。あんたを泣かしたなんてばれたら、また張り飛ばされちまう」
ウインクを投げる。目が小さいため、それは瞬きしたようにしか見えなかったが。
アルフィンも笑った。
「じゃな。おやすみ」
足を引きずってキッチンを出ていこうとするバードを、アルフィンは呼び止めた。
「バード」
彼が振り向く。
「ありがと」
アルフィンは言った。
はみかむようにバードは目もとを緩めてアルフィンに言葉を返そうとした。が、思い留まりちょっとだけ肩をすくめてこう言った。
「気にするな。単なる老婆心さ」
そして、ドアの向こうに消えた。
後には、アルフィンだけが一人取り残された。すっかり冷めてしまったコーヒーに無意識に手を伸ばす。バードの言葉を頭で反芻していた。
口をつけた。苦い、涙の味のするコーヒーだった。
クリスの事件に関する宇宙軍の形だけの取調べを終え、顛末を諸機関に報告してしまうと、ジョウのチームにまたいつもの日常が舞い戻った。いっとき、狂喜したように「ヴァルハラ事件」をこぞって報道していたマス・メディアも、いつまでも潰えた狂信者の野望にかまけている暇はないとばかり、全くその件を取り上げることはなくなっていた。
バードがミネルバを去ったときのことをアルフィンは思い出していた。
「元気で」
ジョウが短く別れを述べた。
「ああ、あんたも」
宇宙軍の制服に身を包んだバードはそう言い、それからジョウの背後に立つタロスに目を向けた。
目を細めて旧友を見やる。
「お前はくたばろうったって、そう簡単にくたばりゃしないだろうが、ま、一応もうご老体なんだからよ、無理はするなよ。派手な仕事はジョウに任せて、ゆっくりミネルバでも操縦してるこったな」
出てくるのは憎まれ口ばかり。
「へっ、違いねえ」
隣でまぜっかえしたリッキーの頭を小突いてから、タロスは言った。
「てめえこそとっととその身体を何とかしやがれ。よかったら腕のいい改造屋を紹介してやるぜ」
「お断りだね。お前みたいになったら困る」
「なんだとう」
湿っぽくなるのを嫌う、二人の軽口の応酬を聞いていたアルフィンは、思わず吹き出した。
「アルフィン」
バードが彼女に向き直った。すっと右手を差し出す。
アルフィンも手を差し伸べた。握手を交わす。
「元気でな」
「ええ。あなたも」
「あのこと、忘れるなよ」
バードは声をひそめてそう言った。
「約束だぞ」
アルフィンはにっこりと微笑んで頷いた。
「わかってる」
「あれ?なんだなんだ。なんか変なムードじゃない?この二人」
そういうことには誰よりも敏感なリッキーが、どんぐりまなこをくりくりと動かし、バードとアルフィンを交互に見た。
「あんたは黙ってりゃいいの」
アルフィンがぴしゃりと一喝する。バードはもう一度、気の置けないクラッシャー連中を見回しながら、ブリーフケースを抱えて搭乗機に向かった。名残惜しそうな表情はもう窺えない。キャビンのハッチが閉まる前にこう言った。
「またどっかで会おう。―――できればもうちょい、楽な仕事でな」
そうやって、別れた。別れの言葉は誰も口にしなかった。どこかでまた会えると、みんな信じていた。
見送りを追えた後、ジョウがアルフィンに訊いた。
「あのことって、なんのことだ?」
アルフィンは肩をすくめて笑っただけだった。
「ないしょよ」
「ふーん」
「兄貴、絶対怪しいって。きっとなんかあったんだよ。兄貴の知らないところでサ」
「ばあか、そういうのを邪推っていうんだよ」
「書けもしない言葉を無理して使うんじゃないや、タロス」
「なんだって」
タロスとリッキーがいつもの喧嘩を始める。タロスも、いつのまにか元のタロスに戻っていた。暗い表情は見せることはない。
じゃれる二人をその場に置いたまま、ジョウとアルフィンはブリッジに戻ろうと踵を返した。
「――あったかもね、ほんとに」
前を行くアルフィンが肩越しにジョウに言った。
「え?」
ジョウは話の流れが見えない。相変わらずの鈍さだ。
あでやか笑顔を彼に向けたまま、アルフィンは、
「もし何かあったとしたら、どうするの、ジョウ」
それだけ言って、金髪を翻し、さっさと先に行ってしまった。
あとには訳が分からずどぎまぎするジョウが残された。
あのときのジョウの顔を思い出すと、今でも思わず笑みが漏れる。
アルフィンは今自室で端末に向かい、最新のニュースをチェックしているところだった。もうすぐ次の仕事のミーティングが行われることになっている。それまでの時間つぶしだった。
あの夜、バードに言われた言葉は今でもアルフィンの心に深く残っている。正直、ずっしりと重くのしかかり、2,3日は食事も満足に喉を通らないほど考え込んだほどだ。
そして、考えて考えて二進も三進も行かなくかったころ、アルフィンは浮上した。立ち直ったと言うよりは、開き直った。
――確かに自分はジョウにとって足手まといかもしれない。クラッシャーとしてもキャリアも浅いし、腕も未熟だ。男の人の腕力には遠く及ばない。ジョウにいつも助けられているというのも、悔しいけど否定できない。
でも、それは仕方ないことなんだ。技術が未熟だとか、女性であるが故に力が劣るとか、そんなことをあれこれ悩んでも焦ってもどうにもならないじゃないの。
大切なのは、そんなあたしでもジョウが大事に思ってくれているということ。
それじゃないの?と思い至った。
ジョウが自分のことを少しは気にかけてくれているらしいということ。他の誰よりも近いところにいて、自分をしっかりと守ってくれていること。
そっちのほうが、何倍も何十倍も大切なものことなんだ。――そう気付いた。
バードはあたしのことをジョウのアキレスのかかと、弱点だと言った。
かかとがなけりゃ、ひとは歩くこともできやしない。
バードからはいろいろ考えさせられることを言われたが、アルフィンはしばらくそれには蓋をすることにした。ちょっとずるいけど、今は見て見ぬ振りをしよう。そう決めた。
今は、ジョウの側にいたいというこの気もちを最優先したい。
それが、アルフィンの辿りついた答えだった。
ニュースを斜め読みしながら、ぼんやりとそんなことを考えていたとき、ドアのインターフォンが鳴った。アルフィンははっと現実の世界に引き戻された。
「俺だ。ミーティングを始める。リビングに来てくれ」
ジョウの声がした。アルフィンはシートから腰を浮かせて部屋を出た。
少し先を、ジョウが歩いていくのが見えた。アルフィンはその背中を追って、肩を並べた。歩調を合わせる。
「次の仕事はどんなの?」
アルフィンにあわせて、ジョウが歩く速度を落とした。
「分からん。受けたドンゴの話だと、アラミスから直々の要請だとさ」
「アラミス?なんか、やな予感がする」
「まったくだ」
ジョウは憮然としている。今までの経験から言って、アラミス経由のオファーは、大抵他のクラッシャーが手に余すような厄介事と決まっていた。
隣を歩くジョウを見ながら、アルフィンはバードの言葉を思い出していた。
たったひとつの弱点か…。
心の中で、呟く。
ねえ、ジョウ。どうせなら、あたし、あなたの最高の弱点になりたい。
ニ度と手放せなくなるような、かけがえのない弱点に。
そう思った。
二人は連れ立ってリビングに入った。
<END>
pixivに改訂版「美しき魔王」後日譚を載せました。ジョウの視点に書き直したものです。
で、こちらにはオリジナルver,アルフィン視点で掲載です。20年も前に書いたので、やっぱり、若い、というか、書き込みすぎて恥ずかしいというか……とにかく拙い。青春スーツを着ている頃書いたものは、恥ずかしいです。
今なら、「書けるけど書かないテクニック」というものがわかるのです。余白のもたらす余韻とでもいうのでしょうか。
当時は書けるだけ書くほうが上手いのだと思っていたのですね……。恥
けれども、アルフィンサイドでしか伝わらないものもあるかと思います。よければ両者目を通していただければ幸いです。
⇒pixiv安達 薫
シートに座るジョウの隣にはアルフィンが寄り添っている。保冷剤を手にして、彼のまだ腫れの引かない顔を抱きかかえるようにして冷やしてやっていた。
部屋の中にはニ人きりだった。通信が終わるとすぐ、タロスは自室に引き上げたし、リッキーとバードはまだやり残した仕事があるとかでメインブリッジにいた。
アルフィンは心配そうにジョウを覗き込みながら、さっきから何度も繰り返している台詞をまた口に載せた。
「薬飲まなくて大丈夫?横になったほうがよくない?」
同じ答えをジョウも口にする。
「いや、このままでいい。具合が悪いわけじゃないんだ」
「だって、こんなに熱いわよ」
ジョウの額に手を当ててアルフィンは言った。
「たいしたことはない。それより、気にならないか」
「何が?」
「タロスさ。様子が変だったろ」
「そう?」
「さっきの通信のときも上の空だったし、ミネルバに戻ってからずっとふさいでるように見える」
「そう言えば…」
「何かあったのかな」
タロスとマージのいきさつを知らないジョウは首を傾げるばかりだった。
アルフィンは帰艦してから欠落していた記憶を徐々に取り戻していた。それからずっとジョウの側から離れなかったので、正直、タロスの様子がおかしいことにも今まで全く気がつかなかったのだ。
自然と口を噤む。沈黙がおりてきた。
お互いの体温を感じながら、二人はしばらく言葉を探した。
「…アルフィン」
ややあって、ジョウが口を開いた。低く穏やかな声だった。熱のせいだろうか、少しくぐもって聞こえる。
「何?」
アルフィンは保冷剤を持っていた手を離し、ジョウの顔を覗き込んだ。
ジョウはシートにもたれ、アルフィンが側に立っているので、心持ちジョウが彼女を見上げることになる。
「タイラー、死んだよ」
ジョウは言った。回りくどい言い方は苦手だった。どうせいつかは話さなくてはならないことだ。
「…うん、知ってる」
懇意だった仲間の死を聞かされても動揺しないアルフィンを見て、ジョウはいぶかしんだ。アルフィンはそっと目を伏せた。
「あたし、タイラーが捕まるところ、見てたから」
「どこで?」
「クリスの部屋」
一瞬の躊躇のあと、アルフィンは言った。
「そうか…」
ジョウは俯くアルフィンの頬にかかる金髪に、そっと手を伸ばした。
そして言った。
「無事で、よかった」
指先で耳もとに触れた。柔らかい耳朶がジョウの手のひらにすっぽりと収まった。
アルフィンは目を伏せたまま、まつげの影をくっきりと頬に落としている。
ジョウは限りなく優しい声で続けた。
「もう大丈夫だ。クリスはいない。ヴァルハラも消滅した。何も心配しなくていい」
「…ん」
顔を上げ、アルフィンは頷いて見せた。笑っているのに、なぜか泣いているような表情だった。
「ひどいことを、されなかったか?ちゃんと眠れてたか」
クリスに監禁されていたアルフィンの心理的ダメージを、ジョウははかりかねていた。天使に身をやつしたあの悪魔の化身に、長期間にわたって拘束された、その恐怖と苦痛を思うと胸が痛んだ。
「平気よ」
アルフィンは肩をすくめた。そして、
「どんなにひどいことをされても、次々と人が殺されていくのを見せられても、こんなやつに負けるもんかって思ったの。あいつはせせら笑ったけど、あたしは必ずジョウが助けに来てくれるって信じてた。だから、何されたって平気よ。泣き言なんか言わなかったわ」
明るい口調でさばさばと答えた。
「…本当に?」
ジョウは念を押した。
「本当よ」
アルフィンはこくりと小さく頷いた。
ジョウはしばらくアルフィンをじっと見つめていたが、やがて目をそらした。
彼女の耳朶から手を離し、ゆっくりと立ち上がった。
そして、その身体を抱き寄せた。
「…ジョウ」
突然のことに、アルフィンは何が何だか分からず、ただされるがままになっていた。
アルフィンを掻き抱きながら、ジョウは続けた。髪の甘い香りが鼻先を掠める。知らず知らずのうちに、怒ったような口調になる。
「アルフィン、そんな風に言うのはよせ。
頼むから、言うな」
「…え…なに?」
アルフィンの声は、ジョウの胸につぶされてしまっている。
「他のやつにはどう言ったっていい。でも俺にはそんな風に言うのはやめろ。強がらなくていいんだ」
自分の声を、アルフィンの身体を通して聞いているような、他の誰かの台詞のような、不思議な感じがした。
「強がるな、って…」
惚けている状態からやっと醒めて、アルフィンが言った。
「何言ってるの、あたし、別に強がってなんか――」
アルフィンが軽く笑ってジョウから身を離そうとしたとき、ジョウと目があった。至近距離。漆黒の瞳が間近でアルフィンを捉えている。鋭いくせに、どこかしら甘い光を宿したそのまなざしに捕らえられたアルフィンは、言葉をのみ込んだ。それまで立っていた足場を何かが強引にさらっていくのを感じた。それは、圧倒的なものすごい力だった。逆らえない。
絶句した。
「――ジョウ」
アルフィンはジョウにすがりついた。
小さな子供がそうするように、全身で彼に抱きつく。
滂沱のように涙が頬を伝った。
「怖かった。――怖かったよう、ジョウ。ほんとにどうしたらいいのか、あたし、ほんとに分からなかった。
クリスも怖かったけど――そんなんじゃないの。そんなのよりもあたし、もう二度とこのままジョウに会えなかったらどうしようって、そればっかり考えてた。そっちのほうが何倍も何倍も怖かったの」
激しくむせびながら、切れ切れにそう言った。涙で顔がくしゃくしゃになっている。
ジョウは抱きつかれたことにはじめうろたえ、そして自分の腕の中で慟哭するアルフィンに目を移した。すぐにそのおもてには、なんともいえない表情が浮かんだ。ジョウはさらに腕に力を込めて、泣き止まないアルフィンを抱きしめる。
「どうしてもっと早くに来てくれないのよ。とってもとっても怖かったんだからね」
「ごめん。悪かった」
ジョウは目もとに笑みを浮かべて、ひとしきりアルフィンの髪を撫でてやった。
「本気で謝ってないくせに」
「謝ってるよ」
「じゃあなんで笑ってるのよ」
「いや…」
あんまし可愛くて。なんて死んでも言えないジョウは、口ごもった。
「なによ。言いなさいよ」
ジョウは、少し迷ってからあらぬ方向を見て、
「いや…はじめからそう素直に言えば、可愛いのに、と思ってさ」
と心とは裏腹のことを言った。
一瞬の空白。
そして、
「ジョウの馬鹿っ!」
アルフィンの右ストレートが、まだ傷いえぬジョウの顔面にクリーンヒットした。
ジョウをKOした後、メディカルルームを飛び出したアルフィンは、涙でかすむ目を擦りながら半ば駆け足で自室に向かった。
まだどきどきと心臓が高鳴っていた。別に本気で怒ったわけじゃなかった。怒り半分、照れ隠し半分で繰り出したパンチだった。そのことはジョウも分かってくれているはずだった。
そのとき、ブリッジのほうから足を引きずるようにして歩いてきたバードと会った。
「おっと」
涙目をしているアルフィンを見て、バードの小さな目がちょっとだけ見開かれる。
「どうした?大丈夫か」
「え、ええ。なんでもないわ。仕事は片付いた?」
動悸を押さえながら、アルフィンは言った。気のせいか、頬が熱い。
「ああ、まだなんかリッキーがやってるけど、俺は先に休ませてもらうことにしたんだ」
バードは自分の脚に巻きつけられたプラスチックギプスを顎で指し示した。苦々しい、自嘲するような表情が過ぎる。
アルフィンは眉をひそめた。
「たいへんね。無理しないで」
「ああ。――ジョウは?」
「メディカルルームで寝てるわ」
嘘ではなかった。バードは頷いた。
「だったらいい。ジョウも今までだいぶ無理をしてきたからな。休養が必要だよ」
「うん…」
実直そうなバードの目に、ふと何かを思い出したような色合いが浮かんだ。
彼はアルフィンが瞬きするほどのあいだ、逡巡し、そして口を開いた。
「アルフィンももう休むのかい」
「ええ、そのつもりだけど」
「そうか…」
ひと呼吸、おいた。で、切り出した。
「実は、ちょっとアルフィンに話しておきたいことがあるんだ。別に急ぐ話じゃないんだが…」
珍しく歯切れが悪い。
「ちょっと、いいかい?」
「話って、なあに」
バードの前にコーヒーカップを置いてから、アルフィンは向かいの椅子に腰を下ろした。
静かな場所で話したいというバードの意向で、アルフィンはリビングではなく、キッチンを選んだ。ここならば夜は誰も来ることはない。
バードはしばらくコーヒーに手をつけずに、黙ってアルフィンを見つめた。
目の前にいるアルフィンは、飾り気のないクラッシュジャケットを着ていようが、涙に濡れた赤い目をしていようが、ひじょうに魅力的な少女として映った。以前会ったときは、その華やかな美貌が先にたつ印象を受けたものだが、今はどこかしら、内側から滲み出るようなしなやかさを感じた。
クラッシャーとして様々な経験をしてきたからだろう―――特に、今回のクリスの事件の与えた影響は大きいとバードは思った。
淹れたてのコーヒーの湯気にかすむアルフィンは、困ったように小首をかしげている。バードがいつまでも話を切り出さず、自分をじっと見つめているだけなので、居心地が悪かった。
「もしかして、タロスのこと?話って」
沈黙を嫌って、アルフィンから切り出してみた。それぐらいしか心当たりがなかった。
「タロス?いや、違うよ」
「あら」
あっさりと否定されて、アルフィンは肩透かしを食らった。
バードはようやく彼女から視線を外し、カップに手を伸ばした。
「ジョウのことさ」
「ジョウの?」
「ああ…」
コーヒーを飲む仕草もなんだかぎこちない。一口含んでから、苦さのためか、それとも傷が痛むのか、少し顔をしかめて見せた。
「今のクリスの事件で、ジョウと一緒に行動して分かったことがある」
クリス、という名前を聞くと、自分でもはっきりと身体が強張るのをアルフィンは感じた。その表情が曇った。
バードは言葉を慎重に選んで、一語一語、区切るようにして言った。
「ジョウは、ほんとにあんたを大事にしてるな」
「え…」
アルフィンはきょとんとした。
「正直、たまげたぜ。あんなに見境のないジョウははじめてだった。誰かから聞いたかい、あんたが拉致されてからのジョウの様子を」
バードの言葉にアルフィンは首を振った。ほのかに、顔が赤い。
「聞いといたほうがいいぜ、ちゃんと」
「…いま、聞かせて」
「だめだ」
「なぜ?」
「泥棒に追い銭はやらない主義なんだ」
「…?」
わけがわからない、と怪訝そうにしているアルフィンを見て、バードは笑った。
仕方なく、話し始めた。
「あんたを取り戻すためなら、手段を選ばなかったよ、ジョウは。無謀に敵に向かっていった。勇敢に、じゃないぞ。無謀にだ。
正直言って、あきれたね、俺は。目の前に立ちはだかるものは、皆殺しにしかねない勢いだった」
アルフィンは、
「そんな…大袈裟な」
とかぶりを振った。
「大袈裟なんかじゃないさ。ほんとのことだぜ。
相手のアマゾナスが女だろうが、同じクラッシャーだろうが関係ない。蹴散らした。
想像つくか、そんなジョウが?」
バードの話に耳を傾けていたアルフィンは、ゆっくりとその意味を咀嚼するように瞬きした。
「ほんとはなあ、ここだけの話、ジョウはヴァルハラなんかどうでもよかったんだと思うぜ、俺は。
あんたさえとりもどせば、きっとそれでよかったんだ」
ぼそぼそと聞き取りにくいほどの小声でバードは言った。
「…まさか」
アルフィンは信じられないでいる。まさか、ジョウが。
「そういう戦いを、ジョウはしていた」
そう言いきるバード。
アルフィンは身じろぎも出来ない。
やがて、その群青の瞳から、大粒の涙がひとつ、零れた。
静かに、滑らかな頬を伝って下りていく。それは、さっきジョウの腕の中で流した涙とは、まったく別の種類の涙だった。
「俺は思ったよ…ああ、ジョウはほんとうにあんたのことを大事に思ってるんだなあ、って。柄にもなく、自分の若い頃なんかを思い出したりしてさ」
バードはその、この世でもっとも美しい涙に―――人が幸福感に満たされて流すときの涙に見惚れながら、限りなく柔らかい口調でそう言った。
「…本当?」
涙はテーブルの上のソーサーに当たって弾けた。
「本当に、そう思う?」
アルフィンは訊いた。
「…ああ」
バードが頷くと、アルフィンはこぼれるような笑みを満面に浮かべた。
幸せだった。
「―――でもな」
不意にバードの声がトーンを変えた。
「今回はたまたまさまざまな事がうまくかみ合って事件も無事解決したが、いつもこう上手くいくとは限らない。だろう?」
バードに見つめられて、アルフィンは頷いた。
「そうね」
「別に無茶をすることが悪いって言ってるんじゃない。誤解しないでくれよ。
男がときには身体を張って誰かを守ったり、命を賭けたりすることがどれだけ大事なことか、そんなこたあ、あのとんちきなタロスだって知ってる。
でもな、ジョウはチームのリーダーだ」
バードは語調を強めた。
鋭いまなざしに見据えられて、アルフィンはどきっとした。
「クラッシャーってのは世間じゃ荒っぽいだの、無鉄砲だの、とかく言われがちだが、そりゃ間違いで、ほんとのとこ冷静さと正確な判断力が何より不可欠な仕事だろ。
あんただって分かるはずだ。それがなきゃ、ただの命知らずの馬鹿野郎だ。あっという間にお陀仏になっちまう。
ジョウは生粋のクラッシャーだ。天賦の才能に恵まれ、若いうちから着実にキャリアも積んで、いまや押しもおされぬランク筆頭だ」
そこで、バードの表情がふと和らいだ。
「おやっさんも、さぞかし鼻が高かろうぜ」
アルフィンの脳裏に、一人の白髪の老人の顔が浮かんだ。
アルフィンは、バードの言っているのがジョウの父親、ダンのことだというのは分かったが、面識がないのでどう反応すればいいかためらわれた。知っていることといったら、昔彼がダンとチームを組んでいたことと、ダンが評議会の現議長だということぐらいだ。
「ジョウは俺が知る中でも超一流だ。大胆だし、度胸も申し分ない。しかも腕がいいときてる。
少なくとも現役のクラッシャーでは最高だ」
バードがまるで我がことのように誇らしげにそう言った。
アルフィンも頷く。
と、そこでまたバードの表情が硬くなった。
「でもな、アルフィン。あんたが絡んでくると、話は別だ。
ジョウはあんたのためだとそういったのを全部かなぐり捨ててしまう。冷静さも判断力もなくして、ただの一人の男になってしまうんだ。
俺はそれが怖い」
バードの言葉に、アルフィンの顔色が変わった。
バードはなおも重ねた。
「今回の件でそれははっきりした。あんたがらみのトラブルが起こると、ジョウはどんな無茶も平気でやる。後先を考えずに行動し、自分のことはおろか、他のチームメイト―――タロスや、リッキーのことすら省みなくなる。
クラッシャーとして致命的だ。リーダーとしても失格だと、俺は思う」
アルフィンは言葉もなくそれを受け止めた。視線はバードの手元のカップのあたりに据えられている。
ややあって、これだけ口にした。
「あたしが、ジョウの足を引っ張ってるっていうこと…?」
顔色が紙のように白い。囁くような小声が、バードの耳に届いた。
バードは首を横に振って見せた。
「そうじゃない。ジョウにはあんたが必要だ。あんただってそうだ。
だが、俺は思うんだ。このままあんたがジョウと同じ船に乗っていっしょに仕事をしていくのは、必ずしもお互いのためにならないかもしれないってな」
「……」
バードの言葉が緩やかに時間をかけてアルフィンの心の中に入っていくのが手に取れるようだった。ふたつの瞳の表面が次第に涙の薄い膜でうっすらと覆われていく。
バードはテーブル越しにアルフィンの肩に手をかけた。
「アルフィン、これだけは言っておく。
あんたはジョウの“アキレスのかかと”だ」
「…アキレスのかかと?」
アルフィンは繰り返した。
「そうだ。
ジョウのたった一つの弱点だ。大事な大事な、な」
バードは言った。
アルフィンはそれを聞くと、きゅっと唇を噛み締めた。
涙を堪える。
バードはくずおれそうなアルフィンの肩をしっかりと支えながら続けた。
「アルフィン、あんたにどうしろなんて言う権利は俺にはない。そんなこと言うつもりもない。
でもそれだけは憶えておいてほしい。あんたがそのことを憶えてるってだけで、これから先、万が一何かあったときにジョウを助けることができるかもしれん。ジョウの力になることができるかもしれん。
俺は、そう思う」
口調がいたわりに満ちた、優しいものになっていることにバード自身、気がついていなかった。
「あたしが、ジョウの力に…?」
「そうだ」
バードは間近でアルフィンの美しい顔を見つめた。自分の娘と言っていいほどの年頃の少女だったが、大きな蒼い瞳に真正面からひたと見つめられると、柄にもなく心が騒いだ。目の前のアルフィンはとてもはかなげで、ジョウがなぜこの娘のことになるとあんなに見境がなくなるのか、同じ男として何となく分かるような気がした。
「俺の言っていることが、分かるか」
バードの問いかけに、アルフィンは小さく頷いた。
そっと涙を拭う。顔を上げた。
「分かるわ。多分」
「それならいい」
バードは笑った。今夜初めて見せた笑顔だった。
ぽん、と軽くアルフィンの肩を叩く。
「じゃあ、俺はもう行くわ。コーヒー、ご馳走さん」
テーブルを支えにして立ち上がった。緩慢な動作だった。アルフィンが手を貸そうとするのを制して、バードは言った。
「おっと、今日のことはジョウには内緒だぜ。あんたを泣かしたなんてばれたら、また張り飛ばされちまう」
ウインクを投げる。目が小さいため、それは瞬きしたようにしか見えなかったが。
アルフィンも笑った。
「じゃな。おやすみ」
足を引きずってキッチンを出ていこうとするバードを、アルフィンは呼び止めた。
「バード」
彼が振り向く。
「ありがと」
アルフィンは言った。
はみかむようにバードは目もとを緩めてアルフィンに言葉を返そうとした。が、思い留まりちょっとだけ肩をすくめてこう言った。
「気にするな。単なる老婆心さ」
そして、ドアの向こうに消えた。
後には、アルフィンだけが一人取り残された。すっかり冷めてしまったコーヒーに無意識に手を伸ばす。バードの言葉を頭で反芻していた。
口をつけた。苦い、涙の味のするコーヒーだった。
クリスの事件に関する宇宙軍の形だけの取調べを終え、顛末を諸機関に報告してしまうと、ジョウのチームにまたいつもの日常が舞い戻った。いっとき、狂喜したように「ヴァルハラ事件」をこぞって報道していたマス・メディアも、いつまでも潰えた狂信者の野望にかまけている暇はないとばかり、全くその件を取り上げることはなくなっていた。
バードがミネルバを去ったときのことをアルフィンは思い出していた。
「元気で」
ジョウが短く別れを述べた。
「ああ、あんたも」
宇宙軍の制服に身を包んだバードはそう言い、それからジョウの背後に立つタロスに目を向けた。
目を細めて旧友を見やる。
「お前はくたばろうったって、そう簡単にくたばりゃしないだろうが、ま、一応もうご老体なんだからよ、無理はするなよ。派手な仕事はジョウに任せて、ゆっくりミネルバでも操縦してるこったな」
出てくるのは憎まれ口ばかり。
「へっ、違いねえ」
隣でまぜっかえしたリッキーの頭を小突いてから、タロスは言った。
「てめえこそとっととその身体を何とかしやがれ。よかったら腕のいい改造屋を紹介してやるぜ」
「お断りだね。お前みたいになったら困る」
「なんだとう」
湿っぽくなるのを嫌う、二人の軽口の応酬を聞いていたアルフィンは、思わず吹き出した。
「アルフィン」
バードが彼女に向き直った。すっと右手を差し出す。
アルフィンも手を差し伸べた。握手を交わす。
「元気でな」
「ええ。あなたも」
「あのこと、忘れるなよ」
バードは声をひそめてそう言った。
「約束だぞ」
アルフィンはにっこりと微笑んで頷いた。
「わかってる」
「あれ?なんだなんだ。なんか変なムードじゃない?この二人」
そういうことには誰よりも敏感なリッキーが、どんぐりまなこをくりくりと動かし、バードとアルフィンを交互に見た。
「あんたは黙ってりゃいいの」
アルフィンがぴしゃりと一喝する。バードはもう一度、気の置けないクラッシャー連中を見回しながら、ブリーフケースを抱えて搭乗機に向かった。名残惜しそうな表情はもう窺えない。キャビンのハッチが閉まる前にこう言った。
「またどっかで会おう。―――できればもうちょい、楽な仕事でな」
そうやって、別れた。別れの言葉は誰も口にしなかった。どこかでまた会えると、みんな信じていた。
見送りを追えた後、ジョウがアルフィンに訊いた。
「あのことって、なんのことだ?」
アルフィンは肩をすくめて笑っただけだった。
「ないしょよ」
「ふーん」
「兄貴、絶対怪しいって。きっとなんかあったんだよ。兄貴の知らないところでサ」
「ばあか、そういうのを邪推っていうんだよ」
「書けもしない言葉を無理して使うんじゃないや、タロス」
「なんだって」
タロスとリッキーがいつもの喧嘩を始める。タロスも、いつのまにか元のタロスに戻っていた。暗い表情は見せることはない。
じゃれる二人をその場に置いたまま、ジョウとアルフィンはブリッジに戻ろうと踵を返した。
「――あったかもね、ほんとに」
前を行くアルフィンが肩越しにジョウに言った。
「え?」
ジョウは話の流れが見えない。相変わらずの鈍さだ。
あでやか笑顔を彼に向けたまま、アルフィンは、
「もし何かあったとしたら、どうするの、ジョウ」
それだけ言って、金髪を翻し、さっさと先に行ってしまった。
あとには訳が分からずどぎまぎするジョウが残された。
あのときのジョウの顔を思い出すと、今でも思わず笑みが漏れる。
アルフィンは今自室で端末に向かい、最新のニュースをチェックしているところだった。もうすぐ次の仕事のミーティングが行われることになっている。それまでの時間つぶしだった。
あの夜、バードに言われた言葉は今でもアルフィンの心に深く残っている。正直、ずっしりと重くのしかかり、2,3日は食事も満足に喉を通らないほど考え込んだほどだ。
そして、考えて考えて二進も三進も行かなくかったころ、アルフィンは浮上した。立ち直ったと言うよりは、開き直った。
――確かに自分はジョウにとって足手まといかもしれない。クラッシャーとしてもキャリアも浅いし、腕も未熟だ。男の人の腕力には遠く及ばない。ジョウにいつも助けられているというのも、悔しいけど否定できない。
でも、それは仕方ないことなんだ。技術が未熟だとか、女性であるが故に力が劣るとか、そんなことをあれこれ悩んでも焦ってもどうにもならないじゃないの。
大切なのは、そんなあたしでもジョウが大事に思ってくれているということ。
それじゃないの?と思い至った。
ジョウが自分のことを少しは気にかけてくれているらしいということ。他の誰よりも近いところにいて、自分をしっかりと守ってくれていること。
そっちのほうが、何倍も何十倍も大切なものことなんだ。――そう気付いた。
バードはあたしのことをジョウのアキレスのかかと、弱点だと言った。
かかとがなけりゃ、ひとは歩くこともできやしない。
バードからはいろいろ考えさせられることを言われたが、アルフィンはしばらくそれには蓋をすることにした。ちょっとずるいけど、今は見て見ぬ振りをしよう。そう決めた。
今は、ジョウの側にいたいというこの気もちを最優先したい。
それが、アルフィンの辿りついた答えだった。
ニュースを斜め読みしながら、ぼんやりとそんなことを考えていたとき、ドアのインターフォンが鳴った。アルフィンははっと現実の世界に引き戻された。
「俺だ。ミーティングを始める。リビングに来てくれ」
ジョウの声がした。アルフィンはシートから腰を浮かせて部屋を出た。
少し先を、ジョウが歩いていくのが見えた。アルフィンはその背中を追って、肩を並べた。歩調を合わせる。
「次の仕事はどんなの?」
アルフィンにあわせて、ジョウが歩く速度を落とした。
「分からん。受けたドンゴの話だと、アラミスから直々の要請だとさ」
「アラミス?なんか、やな予感がする」
「まったくだ」
ジョウは憮然としている。今までの経験から言って、アラミス経由のオファーは、大抵他のクラッシャーが手に余すような厄介事と決まっていた。
隣を歩くジョウを見ながら、アルフィンはバードの言葉を思い出していた。
たったひとつの弱点か…。
心の中で、呟く。
ねえ、ジョウ。どうせなら、あたし、あなたの最高の弱点になりたい。
ニ度と手放せなくなるような、かけがえのない弱点に。
そう思った。
二人は連れ立ってリビングに入った。
<END>
pixivに改訂版「美しき魔王」後日譚を載せました。ジョウの視点に書き直したものです。
で、こちらにはオリジナルver,アルフィン視点で掲載です。20年も前に書いたので、やっぱり、若い、というか、書き込みすぎて恥ずかしいというか……とにかく拙い。青春スーツを着ている頃書いたものは、恥ずかしいです。
今なら、「書けるけど書かないテクニック」というものがわかるのです。余白のもたらす余韻とでもいうのでしょうか。
当時は書けるだけ書くほうが上手いのだと思っていたのですね……。恥
けれども、アルフィンサイドでしか伝わらないものもあるかと思います。よければ両者目を通していただければ幸いです。
⇒pixiv安達 薫