かぐわしいコーヒーの匂いで目が覚めた。
デスクの上に、愛用しているマグカップが置かれている。熱々のドリップコーヒーが湯気を立てて、支給品のデスクトップPCの前。
俺、転寝していたのか、と思い至った瞬間、
「大丈夫? ひどく疲れてるな」
後方、上から声がする。
槙はそちらに顔を巡らせた。
柚木だった。自分の席の傍に立っていた。
カッターシャツに黒のスラックス。スーツの上着は脱いでいる。
残業が長引いているときのお決まりの格好だった。
一見仏頂面だが、それは心配を押し隠している顔だというのは、長い付き合いだからわかる。
「すみません。……どのくらい落ちてました?」
顔をひと撫でしつつ、槙は訊いた。
「15分ってとこかな。大した時間じゃない」
手近なデスクにおいてあった自分用のカップを持ち上げながら、柚木が答える。
いい女はどんな挙措も絵になると思ってしまうのは、惚れた弱みか。
槙は人気のないオフィスを見回した。がらんとしている。
PCの時計は10時半を回っている。ということは……
「みんな帰宅?」
「ああ。お前も早く帰れって伝言してくれって言付かった」
私たちも、そろそろ上がろう。もう遅い。
目でそう言われた。
最近仕事が立て込んで広報室は残業続きだ。でも、文句を言うやつは独りもいない。
かえってスイッチが入ったようにがんがんと巻きを入れるスタッフばかりだ。
でもさすがに今夜は連日の疲労が溜まったと見える。うつらうつらしてしまったらしい。
槙は椅子のバックレストに背中をもたせ掛ける。うなじの辺りがこり固まっている。
こきこきと首をほぐしつつ、
「これ、ありがとうございました」
コーヒーを目で示す。
柚木は「インスタントだけどな」と素っ気無い。
でも、疲れてデスクで居眠りをこいている自分を気にして、眠気覚ましの熱々のやつを淹れてくれたのだ。
わざわざ自分の仕事の手を止めて。
そんな気遣いがうれしく、槙は彼女の空いているほうの手首を掴んだ。そして自分のほうへ引く。
「あ」
自然と柚木が槙の膝に倒れこむ形となった。すとんと腰をかけてしまう。
「こら、コーヒーがこぼれる」
目と目が至近距離で合う。柚木はアイメイクはほとんどしないほうだが、目力は天然で強い。
槙は膝の上に乗っけた柚木のウエストに両手を添えた。
「こぼれてもいいです。大したYシャツじゃないんで」
「そういう問題じゃ-ー」
柚木は最後まで言葉を告げられない。唇を槙にふさがれる。
「……」
「ん……」
数秒、重ね合わせられて、ようやく息が楽になる。
槙は柚木の身体を自分のほうにより引き寄せた。額と額をくっつけ、目の奥を覗き込む。
柚木は照れくさいのか、ばつが悪そうに視線を避けた。
「職場だぞ。いけない」
「誰もいませんよ、俺たちのほかには」
もう帰ったって、あなたが言ったんでしょ。槙がそう囁きつつまた彼女の唇を啄ばむ。たまらず柚木は声を上げた。
「だからって、ここでこんなこと、だめだ」
抗おうとするのだが、なまじカップを片手に持っているせいで、そして中身をこぼさないように気にしているせいで、身動きがかなわない。
まあ、本格的に抵抗する気もないのはとっくに見透かされているが。
槙は柚木の手からカップを受け取って、自分のデスクに置いた。そして向き直る。
「じゃあどこだったらいいんです? 柚木先輩は、いったいいつまで俺にお預け食らわすつもりですか」
「え、」
ぎくり。柚木の動きが凍る。
優位に立ったと見た槙が畳み掛ける。
「俺、割と気の長いほうですけどね。好きな女にこんなに待たされちゃ、さすがに職場でひとがいなくなったら、隙を見て振るいつきたくなりますよ」
ずけずけと言ってのける。
「だ、だって、それは」
「まさか、ハワイで流されるとは思ってなかったからなあ」
「~~だから、それは、っ」
この話題になると、防戦一方だ。決定的に分が悪い。
柚木は上目で槙を掬い、ネクタイをぎゅっと掴んだ。
「ごめんって、謝ったじゃない。何度も。向こうでも、帰ってからも」
「そうですね。でも、期待してたぶんだけ、心の傷がうずいて」
わざとらしく心臓の辺りを押さえてみると、柚木はむううと膨れた。
「ごめん。もう許して」
口を尖らして、あさってのほうを向いてつぶやく。
壊滅的に可愛いなと思ってしまうのは、やはり例の「惚れた」ナントカってやつだな。
自分で突っ込みを入れつつ、槙はまだこのネタを収めるつもりはない。
年上で上司でもある恋人の柚木に、一方的に勝てる材料は、今のところこの話題しかないからだ。
5泊7日のハワイ旅行の最中。結局二人は最終的に男女の関係まで行き着くことはなかった。
初めの日は時差ぼけで柚木が全然使い物にならず、二日目からは夕刻から呑んだくれてベッドに運ぶまでもなく酔いつぶれた。
そうこうしているうちに柚木が「女の子」の日に突入してしまい、結局、槙は一週間「お預け」状態でバカンスを過ごした。
まあ、フォークダンスとまではいかないまでも、ロマンティックなバーで柚木とチークを踊れたのが唯一の救いといえば救いだが。
「だって、まさか急に、あれになっちゃうなんて思ってなかったんだもん」
もう何回目かわからないほど口にした言い訳を、また取り出す柚木。
ごもごもと苦いものでも口の中で転がすように。
「きっと慣れない外国で身体がびっくりしたんだ。周期が狂ったんだよ」
「それはわかってますよ。先輩が意外とデリケートなんだってことも」
「意外とはなんだ」
「意外ってのが不服ですか。じゃあ呑みつぶれたのは」
「あれは、ハワイに限らず毎度のことだろ」
いつも飲み会でへべれけになって、お前に送ってもらってる。部屋まで。
「……ねえ先輩」
槙は声音を変える。まっすぐに自分の膝に座らせた柚木の目を捉えた。
「な、なんだ」
「俺、別に怒ってないです。あっちで、あんたとそういうことできなかったのは。
がっかりしなかったっていったらうそになりますけど」
槙の口調は穏やかだった。淡々と言う。
「う、うん」
殊勝に柚木はあごを引く。
槙は続けた。
「俺が気になってるのは別のことです。ずっと気にかかっていて……。だから正直に言ってください。
もしかして、先輩、あんた俺と寝るの、嫌なんじゃないんですか」
「……え」
生真面目に槙は言い募る。
「だってそれ以外考え付かないんですよ。ハワイでいろいろ不測の事態が起こって、最後まで行き着かなかったのは、まあいいんです。問題は、帰ってきてからも、先輩が俺と全然そういうムードになろうとしないってことです」
仕事が立て込んできたのをいいことに、むしろデートだ何だとプライヴェートで時間を作ることを避けている嫌いがある。
よそよそしいという訳では決してないのだが。ランチだとか一緒に連れ立って外にでたりもするのだが。
オフに誘うと「ごめん、予定がある」と微妙な感じで流される。ここんとこ、毎週。
「そんな、ことは」
柚木は弱弱しく視線を逸らす。そのしぐさがもう図星を語っている。
うつむいた彼女の肩を槙はぐいと両手で抱き起こした。
強い目で彼女を射抜く。そして名前で呼んだ。
職場ではダメと禁じられていたが。今だけは。
「典子、ちゃんと聞いて。あんた、俺に抱かれるの、嫌なのか。それとももう気持ちが離れた?
俺、ハワイにいる間なんかあんたに幻滅されるようなことした?」
だから、と高ぶる想いが声にならない。言葉に詰まる。
「……違う」
違う違うと柚木は途中からかぶりを振った。小さな女の子が不当に問い詰められたときにするみたいに。
そして、
「あんたに幻滅することなんてあるはずない。そんなんじゃない」
柚木は言った。
「じゃあなんでそういう雰囲気になろうとすると、引いてしまうんです? ちゃんと理由を言って」
言い募ると、しばし柚木は視線を泳がせていたが、やがてもう逃げられないと観念したか、ひとつ深いため息を漏らした。
「……幻滅、されるんじゃないかって、思って」
ややあって、ぽつんと言葉を差し出す。
「幻滅? 俺が?」
予想外の言葉に、槙は聞き返す。
こくりと柚木は頷いた。
「あんたと、その、セックスしたら。幻滅されるんじゃないかって、怖くて」
そこまで言って、柚木は槙のネクタイの端を無意識に噛んだ。
(この続きは【夜の部屋】にて 連載
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デスクの上に、愛用しているマグカップが置かれている。熱々のドリップコーヒーが湯気を立てて、支給品のデスクトップPCの前。
俺、転寝していたのか、と思い至った瞬間、
「大丈夫? ひどく疲れてるな」
後方、上から声がする。
槙はそちらに顔を巡らせた。
柚木だった。自分の席の傍に立っていた。
カッターシャツに黒のスラックス。スーツの上着は脱いでいる。
残業が長引いているときのお決まりの格好だった。
一見仏頂面だが、それは心配を押し隠している顔だというのは、長い付き合いだからわかる。
「すみません。……どのくらい落ちてました?」
顔をひと撫でしつつ、槙は訊いた。
「15分ってとこかな。大した時間じゃない」
手近なデスクにおいてあった自分用のカップを持ち上げながら、柚木が答える。
いい女はどんな挙措も絵になると思ってしまうのは、惚れた弱みか。
槙は人気のないオフィスを見回した。がらんとしている。
PCの時計は10時半を回っている。ということは……
「みんな帰宅?」
「ああ。お前も早く帰れって伝言してくれって言付かった」
私たちも、そろそろ上がろう。もう遅い。
目でそう言われた。
最近仕事が立て込んで広報室は残業続きだ。でも、文句を言うやつは独りもいない。
かえってスイッチが入ったようにがんがんと巻きを入れるスタッフばかりだ。
でもさすがに今夜は連日の疲労が溜まったと見える。うつらうつらしてしまったらしい。
槙は椅子のバックレストに背中をもたせ掛ける。うなじの辺りがこり固まっている。
こきこきと首をほぐしつつ、
「これ、ありがとうございました」
コーヒーを目で示す。
柚木は「インスタントだけどな」と素っ気無い。
でも、疲れてデスクで居眠りをこいている自分を気にして、眠気覚ましの熱々のやつを淹れてくれたのだ。
わざわざ自分の仕事の手を止めて。
そんな気遣いがうれしく、槙は彼女の空いているほうの手首を掴んだ。そして自分のほうへ引く。
「あ」
自然と柚木が槙の膝に倒れこむ形となった。すとんと腰をかけてしまう。
「こら、コーヒーがこぼれる」
目と目が至近距離で合う。柚木はアイメイクはほとんどしないほうだが、目力は天然で強い。
槙は膝の上に乗っけた柚木のウエストに両手を添えた。
「こぼれてもいいです。大したYシャツじゃないんで」
「そういう問題じゃ-ー」
柚木は最後まで言葉を告げられない。唇を槙にふさがれる。
「……」
「ん……」
数秒、重ね合わせられて、ようやく息が楽になる。
槙は柚木の身体を自分のほうにより引き寄せた。額と額をくっつけ、目の奥を覗き込む。
柚木は照れくさいのか、ばつが悪そうに視線を避けた。
「職場だぞ。いけない」
「誰もいませんよ、俺たちのほかには」
もう帰ったって、あなたが言ったんでしょ。槙がそう囁きつつまた彼女の唇を啄ばむ。たまらず柚木は声を上げた。
「だからって、ここでこんなこと、だめだ」
抗おうとするのだが、なまじカップを片手に持っているせいで、そして中身をこぼさないように気にしているせいで、身動きがかなわない。
まあ、本格的に抵抗する気もないのはとっくに見透かされているが。
槙は柚木の手からカップを受け取って、自分のデスクに置いた。そして向き直る。
「じゃあどこだったらいいんです? 柚木先輩は、いったいいつまで俺にお預け食らわすつもりですか」
「え、」
ぎくり。柚木の動きが凍る。
優位に立ったと見た槙が畳み掛ける。
「俺、割と気の長いほうですけどね。好きな女にこんなに待たされちゃ、さすがに職場でひとがいなくなったら、隙を見て振るいつきたくなりますよ」
ずけずけと言ってのける。
「だ、だって、それは」
「まさか、ハワイで流されるとは思ってなかったからなあ」
「~~だから、それは、っ」
この話題になると、防戦一方だ。決定的に分が悪い。
柚木は上目で槙を掬い、ネクタイをぎゅっと掴んだ。
「ごめんって、謝ったじゃない。何度も。向こうでも、帰ってからも」
「そうですね。でも、期待してたぶんだけ、心の傷がうずいて」
わざとらしく心臓の辺りを押さえてみると、柚木はむううと膨れた。
「ごめん。もう許して」
口を尖らして、あさってのほうを向いてつぶやく。
壊滅的に可愛いなと思ってしまうのは、やはり例の「惚れた」ナントカってやつだな。
自分で突っ込みを入れつつ、槙はまだこのネタを収めるつもりはない。
年上で上司でもある恋人の柚木に、一方的に勝てる材料は、今のところこの話題しかないからだ。
5泊7日のハワイ旅行の最中。結局二人は最終的に男女の関係まで行き着くことはなかった。
初めの日は時差ぼけで柚木が全然使い物にならず、二日目からは夕刻から呑んだくれてベッドに運ぶまでもなく酔いつぶれた。
そうこうしているうちに柚木が「女の子」の日に突入してしまい、結局、槙は一週間「お預け」状態でバカンスを過ごした。
まあ、フォークダンスとまではいかないまでも、ロマンティックなバーで柚木とチークを踊れたのが唯一の救いといえば救いだが。
「だって、まさか急に、あれになっちゃうなんて思ってなかったんだもん」
もう何回目かわからないほど口にした言い訳を、また取り出す柚木。
ごもごもと苦いものでも口の中で転がすように。
「きっと慣れない外国で身体がびっくりしたんだ。周期が狂ったんだよ」
「それはわかってますよ。先輩が意外とデリケートなんだってことも」
「意外とはなんだ」
「意外ってのが不服ですか。じゃあ呑みつぶれたのは」
「あれは、ハワイに限らず毎度のことだろ」
いつも飲み会でへべれけになって、お前に送ってもらってる。部屋まで。
「……ねえ先輩」
槙は声音を変える。まっすぐに自分の膝に座らせた柚木の目を捉えた。
「な、なんだ」
「俺、別に怒ってないです。あっちで、あんたとそういうことできなかったのは。
がっかりしなかったっていったらうそになりますけど」
槙の口調は穏やかだった。淡々と言う。
「う、うん」
殊勝に柚木はあごを引く。
槙は続けた。
「俺が気になってるのは別のことです。ずっと気にかかっていて……。だから正直に言ってください。
もしかして、先輩、あんた俺と寝るの、嫌なんじゃないんですか」
「……え」
生真面目に槙は言い募る。
「だってそれ以外考え付かないんですよ。ハワイでいろいろ不測の事態が起こって、最後まで行き着かなかったのは、まあいいんです。問題は、帰ってきてからも、先輩が俺と全然そういうムードになろうとしないってことです」
仕事が立て込んできたのをいいことに、むしろデートだ何だとプライヴェートで時間を作ることを避けている嫌いがある。
よそよそしいという訳では決してないのだが。ランチだとか一緒に連れ立って外にでたりもするのだが。
オフに誘うと「ごめん、予定がある」と微妙な感じで流される。ここんとこ、毎週。
「そんな、ことは」
柚木は弱弱しく視線を逸らす。そのしぐさがもう図星を語っている。
うつむいた彼女の肩を槙はぐいと両手で抱き起こした。
強い目で彼女を射抜く。そして名前で呼んだ。
職場ではダメと禁じられていたが。今だけは。
「典子、ちゃんと聞いて。あんた、俺に抱かれるの、嫌なのか。それとももう気持ちが離れた?
俺、ハワイにいる間なんかあんたに幻滅されるようなことした?」
だから、と高ぶる想いが声にならない。言葉に詰まる。
「……違う」
違う違うと柚木は途中からかぶりを振った。小さな女の子が不当に問い詰められたときにするみたいに。
そして、
「あんたに幻滅することなんてあるはずない。そんなんじゃない」
柚木は言った。
「じゃあなんでそういう雰囲気になろうとすると、引いてしまうんです? ちゃんと理由を言って」
言い募ると、しばし柚木は視線を泳がせていたが、やがてもう逃げられないと観念したか、ひとつ深いため息を漏らした。
「……幻滅、されるんじゃないかって、思って」
ややあって、ぽつんと言葉を差し出す。
「幻滅? 俺が?」
予想外の言葉に、槙は聞き返す。
こくりと柚木は頷いた。
「あんたと、その、セックスしたら。幻滅されるんじゃないかって、怖くて」
そこまで言って、柚木は槙のネクタイの端を無意識に噛んだ。
(この続きは【夜の部屋】にて 連載
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