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大阪都構想はなぜダメだった?ヒントは江戸時代にある
なるほど
大阪都構想はなぜダメだった?ヒントは江戸時代にある|神楽坂淳の新「異説まちまち」
「大阪都構想」が結局は否決された。残念な人もいるし喜んでいる人もいるだろう。
筆者は大阪の人間ではないので口を出すべき立場にはないが、江戸時代的な考えでいくと順番が違う気がする。
大阪に金が集まって仕方がないから、商人の町として栄えるのである。商人の町だという枠をつくったから金が集まるわけではない。
つまり、少々システムの優先がすぎて住民が理解できなかったのではないかと思う。
江戸時代の大阪は、まさに商人の町である。武士は江戸に住んでいるからだ。江戸の8割が武家地なのに対して、大阪の8割は商人の町である。そして当時は海運社会であった。
陸路だと徒歩なのだから、船の方が圧倒的に速い。物流は船を中心にしていた。北海道の昆布が沖縄に運ばれていたのも海運があったからである。だから港町が栄える。
江戸から名古屋に行くにしても、海路で桑名まで行ってから上陸した方が早かった。そういう世界だと、堺港を持っている大阪は強い。
そのうえ、江戸時代の大阪は文化の発信源だった。着物の流行は大阪から東京に伝わるものだった。酒にしてもなんにしても、大阪から下るものが上等とされた。
大阪から江戸まで下る価値のないものを「くだらない」と称するくらいに文化の中心は大阪だったのである。
江戸幕府は、大阪の影響が強すぎることを懸念して「下りもの禁止令」を発令して、大阪からの物品の流通を禁止したほどである。
武士の江戸、商人の大阪というのは、大阪に金が集まっていたからである。「欲しいもの」を提供するから金が集まるわけである。戦国時代なら鉄砲。平和になったら文化。
同時に、港町にはいい女が集まる。女を抱いておいしいものを食べて土産を買う。金が集まるのも道理である。さらに、大阪では江戸のガイドブックも売っていた。
つまり、経済はなにもかも大阪が握っていたと言っても過言ではない。現在は東京が全部握っている。だから「都構想」とやらの箱だけ整えても仕方ない。
大阪の食い倒れというが、江戸時代、唯一江戸が勝っていたのがこの「食い倒れ」である。ほかは、かなわなかった。大阪は服にこだわる「着倒れ」の町でもあった。
大阪も、まずは文化の中心の座を取り戻すことが大切だと思う。
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