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あとはおまかせ
コロナ自粛で国民は多くを失った/倉山満
1年間、喜びを得ることのない暮らし
コロナ診療に」と総力戦の姿勢を示した 写真/朝日新聞社
―[言論ストロングスタイル]―
「ゼロコロナ」などと、ガキンチョ理論を掲げるが、ガキの集まりか?
すべての患者の命を救いたい。尊い医の倫理だ。しかし、それを政府が本気でやろうとすると、国は滅ぶ。この矛盾の中で生きる者が、大人なのである。
財政学では「軍事と医療は二大金食い虫」と言われる。上限を決めないと、無限大の支出を求められるからだ。「万全の軍事予算」など、世界征服しても実現できないだろう。
たとえば大日本帝国は、「朝鮮は日本の生命線!」「朝鮮を守るには満蒙だ。満蒙は日本の生命線!」……と戦線を拡大し、東はカナダから西はマダガスカルまで、地球の半分で戦った。当然、そうした軍事活動を支える財源が必要で、国民に対する増税に次ぐ増税で賄われた。敗戦時、軍事費は国家予算の9割を占めた。しかし、国民の辛抱は何一つ報われず、国全体が焼け野原にされた。
何を選び何を捨てるかは、財源との相談だ
医療も、同じである。すべての命を救おう! すべての人に健康な生活を! などと言い出したら、財政支出は無限大となる。離島にドクターヘリを置くのも、難病を手術する施設を充実させるのも、目的は「命を救うため」である。あらゆる要請の中で、何を選び何を捨てるかは、財源との相談だ。国家は経済力の限界までの命しか救えない。この現実を受け入れられない者は、子供だ。
立憲民主党など、「ゼロコロナ」などとガキンチョ理論を掲げるが、ガキの集まりか? そもそも、人類が根絶できた疫病など、天然痘以外にあるのか。
しばしば、台湾やニュージーランドが「ゼロコロナ」の模範生としてあげられる。しかし、両国ともに「ニアリーイコールゼロ」であって、「ゼロ」ではない。数学の初歩だが、本物のゼロと限りなくゼロに近いは、大きく違う。百歩譲って、限りなくゼロに近いコロナ抑え込みを実現した台湾やニュージーランドが称揚されるとして、初動ならいざ知らず、今から日本がそれをやろうとして可能なのか。
東京都医師会・尾﨑会長が「医療総力戦だ」と言い出した。世間の風向きの変化を読んだか?
確かに、コロナ禍の初動において、当時の安倍晋三内閣のなした所業と不作為は、批判されてしかるべきだ。当時の安倍内閣は検察人事に熱中し、コロナ対策を後回しにした。習近平訪日と東京オリンピックを控え、コロナを大仰にしないようにした。だから春節に際して、武漢も含めた中国からの観光客が大量に押し寄せた。そして、コロナウイルスを日本中にバラまいた。これは、いかなる安倍信者も、弁護しようがない。世界一早く武漢の状況を察知して国を封鎖した台湾を羨ましがっても仕方がないが、もし初動においてもう少しマシな対応をしていれば、日本はこれほどのコロナ禍に苦しめられることはなかったかもしれない。
では、どのような苦しみか。
確かに最初は未知の感染症だった。政府は助言者である医師たちに言われるがままに、「ペストやエボラ出血熱のように危険な伝染病かもしれない」との仮説で、国家経済そのものを止めた。
国民の自粛にも限界がある
マスクをしろ、外出するな、飯を食うな……政府を通じた医者たちの要求は、エスカレートしていく。
疑念を呈した人はいた。「政府の助言者の医師たちは、患者を減らせ、現場の医療は崩壊寸前と言う。しかし、ゼロコロナなど不可能であり、国民の自粛にも限界がある以上、医療体制を構築するしかないではないか」と。これに対し医師会は、特に東京都医師会会長尾﨑治夫は「医者は簡単に増やせない」と事あるごとに絶叫していた。
ところが、最近は潮目が変わった。その尾﨑会長が「医療総力戦だ。すべての医師がコロナに立ち向かおう」と言い出した。世間の風向きの変化を読んだか。本欄でも再三再四提言してきたのが「大木隆生コロナ担当大臣」による日本救国だが、尾﨑発言は大木提言そのものである。国民の怒り、「大木大臣」による大木提言の実現を望む、声なき声を感じ取ったか。
国民は多くを失った
もはや国民生活は破綻寸前である。なるほど、一部の補助金が回っている業者は潤っているが、失業廃業が相次いでいる。それでも政府の財政出動と日銀の金融緩和があるから持ちこたえているが、それらが無ければ即座にリーマンショック以上の大不況が訪れる。それほどの危機だ。国民は多くを失った。
コロナ自粛で何が失われたか。
自殺者はリーマンショック以来11年ぶりに前年比増。失業率も11年ぶりに増加。DVの相談件数過去最多。大学1年生のほとんどはオンライン授業を強要され、キャンパスに通ってないし友達も作れてない。
昨日まで高校生だった若者が地方の親元を離れ、生まれて初めて都会で一人暮らしをした孤独と不安、経験したものでなければ理解できないだろう。入学式まで知り合いの誰とも会わない、授業が始まるまで友達ができない、そんな大学一年生が多くいる。それも、大学生活が始まるから、生きる喜びに変わる。
1年間、喜びを得ることのない暮らし
しかし1年間、人としての喜びを得ることのない暮らしを強要された。 これほどの犠牲は、何のために払われたのか。
「新コロはペストのように危険な伝染病かもしれない」との仮説がすべての出発点だった。そして、医療体制の構築は追いつかないから、感染者(と称する陽性者)を増やさないよう、国民全員が自粛を強要された。
だが、新コロは「少しはマシなスペイン風邪」ほどの死者を出している欧米ならいざ知らず、日本では「少しはしつこいインフルエンザ」程度だ。無関係なものにとっては、新コロより花粉症の方がよほど迷惑だ。政府は今後、インフルエンザや花粉症が流行るたびに緊急事態宣言を出すのか。
この期に及んで、政府の最高助言者である尾身茂は「若者は花見に行くな。飲み会をやるな。旅行をするな。外で飯を食うな」と命じてくる。日本医師会会長中川俊男は「緊急事態宣言を無制限に延長すべきだ」とまで言い始めた。それらすべて、「新コロがペストのように危険な伝染病かもしれない」との仮説が崩れた以上、何の正当性もない。
1年以上、日本は尾身・中川・尾﨑らに振り回された。その都度、もっともらしいエビデンスを出してくる。しかし、あらゆるエビデンスの価値は、目的によって決まる。今の政府が推進する「なんちゃってゼロコロナ」の如き、世界征服に等しい不可能な目標に向けてのエビデンスなら無視すればいい。
いい加減、目を覚まそう。 ―[言論ストロングスタイル]―
【倉山 満】 ’73年、香川県生まれ。中央大学文学部史学科を卒業後、同大学院博士前期課程修了。在学中より国士舘大学日本政教研究所非常勤職員を務め、’15年まで日本国憲法を教える。現在、「倉山塾」塾長、ネット放送局「チャンネルくらら」などを主宰し、大日本帝国憲法や日本近現代史、政治外交について積極的に言論活動を行っている。ベストセラーになった『嘘だらけシリーズ』
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