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引退「吉田拓郎」と学生運動 広島大で運動家から「やめろ!」と吊るしあげられた過去
実兄の影響もあって音楽の道に
ラ・サール高(鹿児島)から立教大に進み、ジャズピアニストになった実兄の影響もあって、拓郎は1962年に地元の広島皆実高に入ると音楽を始めた。最初に買った楽器はウクレレ。安価だったためだ。
学生運動への嫌悪
「私たち」を歌う岡林信康と「私」を歌う拓郎
当時、フォークの神様といえば、「私たちの望むものは」や「友よ」を歌った岡林信康(75)。このコンサートにも出演した。だが、観客の視線は拓郎に集中してゆく。
当時の若者たちが学生運動の敗北に打ちひしがれていた上、激化の一途を辿る内ゲバに戦慄していた影響だった
政治色のある歌が歓迎された1960年代の日本には、無党派層が5%程度しか存在しなかった。
ところが、学生運動に一区切りが付き、事件を次々と起こす過激派への批判が高まった1970年代になると、無党派層は約20%に激増する。政治と距離を置く人たちが一大勢力になった。同時に政治色ゼロの拓郎も支持を伸ばした
拓郎が若者のカリスマから全世代が知るアーティストにステップアップしたのは1972年1月。シングル「結婚しようよ」が40万枚以上売れたからだ
作詞も作曲も拓郎。プロポーズのエピソードを詞にしたのは斬新だった。既存のプロの作詞家が思いつかないような詞。やっぱり個人に拘った
拓郎がつくった曲は故・かまやつひろしさんに提供した「我が良き友よ」(1975年)、キャンディーズに提供した「やさしい悪魔」(1977年)、石野真子(61)に提供した「狼なんか怖くない」(1978年)。
特に森進一(74)に提供した「襟裳岬」(1974年)はミリオンセラーとなり、日本レコード大賞と日本歌謡大賞をダブル受賞した。
当時、まだ28歳だった。
誰もやっていないことにも積極的に挑んだ。1975年8月2日から3日には静岡県掛川市のつま恋で、野外オールナイトコンサート「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋」を開催した。オムニバス形式ではないオールナイトの野外コンサートは日本初だった。
動員したのは約7万5000人。音楽関係者たちは一様に仰天したという。ちょっとした地方都市の人口並みの観客を集めてしまったからだ。この大成功を見てほかのアーティストもオールナイトの屋外コンサートを開き始める。当然だった。
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なお実兄は
ラサール高校の1期生
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