鳥と犬と猫と、ときどき雀

ー鳥2羽と保護犬2匹と捨て猫2匹との生活を綴ったブログですー

コミドリコンゴウインコのナッツ、今年も母になりました!!

2024-06-15 | 鳥のこと

ナッツが産卵を始めて4度目の春です。

毎年なんとか産卵を避けたくてスキンシップを控えめにしたり気を引きそうなオモチャを用意したりしましたが、神の摂理に抗おうとしていたなんて、なんと愚かな行為であったかを猛省しました。

なので今年はナッツの思うがままに過ごせるように配慮し、母体が健康でいられるように十分に注意を向けて見守ることにしました。

 

今年のナッツは4月の中頃から巣となる場所を探し始めました。そして横2列、縦3段のラックの右下に狙いを定め巣作りを始めます。

段ボールに布張りをした引き出しを嘴で削りながら卵を温める場所を作りだしたのですが、ラックには使っていない配線がたくさん入っていたので、ナッツがケージにいる隙に全て取り出し犬猫用の玩具や鳥用のオモチャ、段ボールの小箱など削れそうな物を置くことにします。

それからはたまに巣となった場所を見に行く程度で産卵らしき様子はなかったのですが、5月に入ると一気に加速して巣の中やケージで産卵時に発する独特な鳴き声が頻繁に聞こえてくるようになりました。

そして5月6日には巣から一向に出る様子がなく、そっと覗いてみると縦3センチ横2センチの白い卵が産まれていました。

さてさて、これからが大変な日々の始まりです。

 

巣の中にナッツがいるときは柵をして出られないようにします。なぜなら側に近づく動物はもちろん人間に襲い掛かり攻撃してくるのです。卵を抱えている間のナッツはいつもの何倍も何十倍も神経質で攻撃的になります。

それも子を守る母性からくるものなので、神から与えられた本能というものを十分に発揮しているナッツはとても美しいとさえ思えます。

誰が教えたわけでもないのに必死に子を守ろうとするのですから神の創られたシステムの見事さに感嘆しますが、時に虐待や子を産み捨てるニュースを聞くと本能というものを発揮できていない人間が存在するのはなぜなのか?と疑問に思うこともあります。

それは巷に人間の欲望をそそる物や場所が溢れているからなのではないだろうか?その欲望が母性や霊性を上回っていて自分自身をコントロールできないのではないか?と寂しく思ってしまいます。

はたまた子を産み育てる予定なく妊娠してしまったケースも多いと思います。育てられる環境にないのに…こんなはすではなかったのに…と。

といえ、自分の楽しみや快楽、不安や恐怖と子どもの生命とは比較対象にさえならない次元にあると私は考えます。子を産み育てるのは自己犠牲をかえりみず、ひたすらに愛を与え続けるという神の代理者としての役目があるからです。

ですから、歯がゆく悲しい気持ちになってしまいます。

 

 

さてナッツの日常は朝の5時過ぎから始まります。夜は卵を温めているので朝陽とともに柵を解放します。

他の動物たちが寝ている間にナッツはたまった糞をして、ナッツ(豆類)と餌を大急ぎで食べて水をがぶ飲みして再び巣へと戻っていきます。その間、約5分という短さです。

ナッツは巣の中では糞もせず、餌もたべないので時々外へと誘導しなくてはなりません。

たまに私の肩にとまりくつろいだり頭をなでてもらったりもしますが、そういう時はナッツへ励ましの言葉を投げかけています。「ナッツ母さん今日もご苦労様です」「ナッツは良いお母さんだね」と。

その間に巣の様子も見るのですが、5月9日に卵が2つに増え13日には3つになっていました。15日にはナッツが餌を食べている隙に偽卵に変えました。

とにかく無事に産卵期を終えることを願いながら見守り続けていきたいと思います。

 

先にも述べましたが、私は今期のナッツの産卵を神の摂理と受け入れて見守ることにしました。そして、なぜ今まで神の摂理と知りながらそれが出来なかったのかを考えました。

それは摂理よりも母体の健康が大事だと思っていたのです。

十数年シルバーバーチの言葉を学びながらも、それを日常に活かすのはとても難しいことを思い知りました。

そのためには“地上的視野から霊的視野“へと変換が必要ですし、“神の摂理への絶対的信仰“がいります。

今まで積み重ねた固定観念や我欲なども取り去らなくてはなりません。

またナッツに危機が迫っても神の摂理は狂うことも誤ることもない、起きる全てに神の深い愛が働いていることを理解しなくてはなりません。(*1)

全ての出来事が摂理の枠内で起きているのです。

ナッツの産卵を通して学ぶことがたくさん用意されているのです。

 

それに加えて、本当の愛とは何かを理解することも重要だと私は考えます。真実の愛があってこそ、見守ることの大切さが分かるようになるからです。

 

シルバーバーチは真実の愛について、このように語ってくれています。(*2)

「真の愛は大小優劣の判断を求めません。愛するということ以外に表現の方法がないから愛するまでです。宇宙の大霊は無限なる愛であり、自己のために何も求めません。向上進化を梯子を上っていけば己のために何も求めず、何も要求せず、何も欲しがらぬ高級霊の世界に辿りつきます。ただ施すのみの世界です」  シルバーバーチの霊訓1 

ーーーーー
 
「愛の最高の表現は己を思わず、報酬を求めず、温かすら伴わずに、全てのものを愛することができるのです。その段階に至った時は神の働きと同じです。なぜなら自我を完全に滅却しているからです。愛は人のために尽くし、人を支え、人を慰めんと欲します。愛は慈悲、同情、親切、優しさとなって表現されます。愛はまた、滅私と犠牲の行為となって表れます」  
シルバーバーチの霊訓1
 

このシルバーバーチの言葉を読むたびに真実の愛を表現できていないことを思い知ります。

自己を思わずに報酬を求めずに愛するのですから…。

私は心のどこかに見返りを期待していることがあります。お礼の言葉がないとガッカリしたり失礼だと思っていることがあるのです。

 

また、真の愛は大小優劣の判断を求めないのです。

人間であろうと動物であろうと昆虫であろうと植物であろうと鉱物や日常にあふれる様々な物質も、その根源をたどっていけば神にいきつきます。この全大宇宙に存在する全てのものが神の顕現なのですから、大小優劣をつけることはできないはずです。(*1)

日常を振り返ると瞬間的に大小優劣を判断していることがあります。人間をものごとの基準にするという意識が残っている証拠です。

 

さらに温かさすら伴わずに愛することはとても難しいと感じます。

“温かさすら伴わない愛”とは、相手が苦しい思いや辛い思いをしている時にも神の摂理を信じて霊的に成長してくことや、強く乗り越えていくことを祈りながら見守ることだと私は理解しているのですが、つい老婆心が働きます。口が出てしまいますし、つい手を貸してしまうのです。

見守る愛は神と神の摂理への確信と、その人自身もミニチュアの神として克服する力を潜在的に持った存在だと認め、神の配剤を信頼することだと常々感じますし、今誰もが自分で立てた計画を地上という霊的成長のスタート地点で歩み、死後に備えていると納得すること、そして自分自身で成し遂げなくてはならないことなんだと霊的に受け止めることも必須です。

そのために神は愛の思いで全てを用意してくださっているのですから、神に委ねることが温かさを伴わない愛なのだと思います。

一見すると何もしない冷たい人のように見えてしまいます。

が、愛の本質は霊的なものなので私たちにできることは全てを神に委ね愛するだけでいいのだと…思うのです。

 

神の愛や高級霊の愛は私には難しすぎる課題です。ですが私にとっての理想ですし目標でもあります。

ですから日常を神の愛でいっぱいにしていきたいと、ナッツの4度目の産卵から改めて思いました。

 

シルバーバーチの言葉です。

「最高の徳は愛他的です。愛すべきだから愛する、愛こそ神の摂理を成就することであることを知るが故に愛する。これです」  シルバーバーチの霊訓1

 

 

 

(*1)  「関東シルバーバーチの会」という、「シルバーバーチの霊訓」を学ぶ読書会のメンバーが「あいのしんこと舎」を設立し、自費出版にてスピリチュアリズムの知識を分かりやすく絵本にしました。

絵本は全部で「コトとシンのうちゅういちたのしいおはなし」     「コトとシンの10のどうして?」     「コトとシンのうちゅういちたいせつなおはなし」    「コトとシンのうちゅういちすてきなおはなし」

「コトとシンのうちゅういちふじぎなおはなし の五部作です

 「コトとシンのうちゅういちたいせつなおはなし」 と 「コトとシンのうちゅういちすてきなおはなし」には、宗教で語られる神ではなく私たちの身近に存在する真実の神の姿が表現されています。絵本から「神」という言葉に翻弄されることなく、私たちの身近に存在し深く大きな愛で愛してくださっている霊の親としての神を知っていただきたく存じます。

絵本は英語版、中国版もあります。ご興味のある方はぜひ「あいのしんこと舎」のホームページへ足を運んでみてください。

また、読み聞かせ動画のあいのしんこと舎チャンネル 」からは、コトとシンシリーズの全巻を見ることができます。心に響く語りと可愛い絵とバック音楽(オリジナル曲)が心を和ませてくれます。

 

(*2)「シルバーバーチの霊訓」は、スピリチュアリズム・ブックスから購入できます。


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