保護犬チワワのミルキーは食べることと寝ることが大好きで、「ミルキー寝るよ!」と声をかけると尻尾をフリフリしながら寝床に飛び込んでいきます。
先日も大喜びで娘から譲り受けたクーファンへと飛び込んでいったのですが…2時間くらい経ったころ急に何度か吠え、その後寝室を行ったり来たり…お願いのポーズやお祈りのポーズをして落ち着きがなくなりました。目はトロンとして眠そうなのですが痛くて寝れない……という感じです。
6年前に腸閉塞で大きな手術をしたのですが、その時と様子が似ていたので「これは大変だ!」と夜間も開いている動物病院を探して診察してもらうことにしました。結果、緊急を要するような初見は見られず、翌日かかりつけの病院へ行くと便が固くなっているとのことでした。「まったく心配させて~!!」……でも何でもなくてホッとしました。
ミルキーは割と大げさに驚いたり、怖がったり、痛がったりするので気持ちを読み取るのは至難の業です。人間関係でさえ相手の気持ちが分からないことが多々あるのですから、当たり前なのだと思います。
そんなミルキーにたくさん愛を渡して、たくさん祈りを捧げたいと思いました。人間が大好きになるように、楽しい思い出を携えて地上での最後を迎えられるようにと…。
さてミルキーを連れて夜間動物病院で待っている時、痛みが緩和されるように、また御心ならば大きな病気ではないことを祈っていましたが、この件に限らず最近私は祈りの重要性をとても感じています。
そのきっかけになったのは息子の病気治療に関連してのことです。
息子は25歳という若さで脳梗塞を発症し、直後に更なる出血に見舞われて一時は死を覚悟しました。
その時に私は、息子が死んでしまうことに恐怖を感じることはありませんでしたが、目の前から見えなること、触れられなくなること、話が出来なくなることをとても寂しいと感じました。それは私の中にはまだまだ物的意識があるということです。
そこで私は息子を喜んで霊界へ送り出せるように、霊的視野を広げてほしいと切望しました。霊界での息子を思い描ける力を持たせてほしいと祈ったのです。
結局、息子は地上人生で為すべきことがまだ残っていて今もいますが、自分の現状を受け止めることやリハビリの大変さ、日常での生活のし辛さを目の当たりにすると、あの時死を迎えていた方が楽であったろうと痛感します。
それは地上での一定の負債を返したということですし、苦しい現状や重い肉体から解放される死は喜び以外の何物でもないのだと今は心から思っているからです。
今後もし息子が自分より先に霊界入りすることになった時には、大変だった地上人生からやっと解放されるのですから、「頑張ったね。おめでとう!!」と声をかけてあげたいと思っています。
このことをきっかけに私は、祈りの重要性を今まで以上に感じることになったのです。
更に息子がリハビリを継続していく中でも感じたことでした。
25歳という若さで片麻痺という大きな障害を背負って、これからの人生を送ることになった息子に対しての祈りです。
脳梗塞での後遺症は片麻痺だけにとどまらず、てんかんや感覚障害、言語障害も引き起こしました。
そのためにやっと更新にたどり着いた運転免許も一時停止になったり、麻痺側の感覚が鈍り痛みは少し感じるものの、熱さなどは感知しにくく気づかぬうちに火傷の危険性もあります。お風呂に入っても麻痺側に熱さを感じることはないと言っていました。
言語に関してはしゃべりにくさや咀嚼時に食べ物が飛び出してしまうこともままあります。「しゃべりずれー」と良く言います。
他にも大好きだったトランペットやピアノ、ゲームも思うようにはできず多くのことが奪われてしまいました。またこれからやりたいと思っていたことの多くが出来なくなったのだと思います。
そういう姿を見ていて、悔しさや絶望感で人生を諦めてしまうのではないか?何もやる気になれないのではないか?と思いうと切なくなりました。
「なんとか強い心を持って地上人生を最後の日まで闘い、生き抜くことができるように」と、神と息子の守護霊に守護し導いてほしいと切望しました。毎日ことあるごとに祈っていましたし、今もそうしています。
そして自分で決めてきたブループリントを一つでもクリアしてほしいと願っています。そのために私を役立ててほしいとも思っています。恥ずかしながら、こんなにも真剣に誰かの魂の救いのために祈ったのは真理に出会って初めてだと思います。
もちろん肉親ですから利己性の伴った愛であるのは重々承知していますが、肉親という枠を超えて一人の霊として魂の救いを願ったのです。
そう考えると、今までの私の祈りは上辺だけの単なる言葉の羅列に過ぎなかったのではないだろうか?と猛省もしました。祈りがこんなにも大切な霊的活動だということを身をもって知れた価値ある時間になっていたのだと思います。
さて発病から1年6か月ほどたった今は、神と息子の守護霊、背後霊、身内の霊などあらゆる霊的存在者に対しての感謝の祈りをしています。
なぜなら1年ほど過ぎたころに息子から、ある告白をうけたからです。
それは発病当初はずっと「死にたい」という思いに囚われていたというものでした。自分の現状が分かるにしたがい絶望感に見舞われたのだろうと思うのですが、一度「死にたい」と思うと呪縛のようにはまり、そこから抜けることが出来なかったといいます。この言葉を聞いた時は愕然としました。
息子がなんとか立ち直るようにと祈りもしましたが、真理を交えて話をしたり、常に心に寄り添うようにしていたからです。
ただただ人間の無力さを感じると同時に霊界の威力の凄さも感じました。人間と違って霊界はその人の魂に直接的に働きかけることができるのだとハッとしたのです。
息子はなんとか「死にたい」思いを打破するために音楽を聴いたり、動画をみたり、とにかく死にたい感情が湧いてこない状況をつくったといいますが、きっと霊界の守護と導きのもとでなされたことなのだと感じます。
その様子を思い浮かべると、息子の周りにはたくさんの霊的存在者が力を注いでいたことが想像できます。目に見えるような華やかな現象ではありませんが、私にとっては霊界への途轍もない信頼をえる体験になりました。静かなる確信です。
そんなわけで私は毎日、神と霊界の方々へ感謝の祈りを捧げていますし祈りの大切さや重要性を感じているのです。祈りや瞑想をしているとき神や霊界という大きな存在に近づき、その思いにふれ神や霊界への信頼に満たされます。(*1)
こうした祈りの体験から私は、祈りは自分のために祈るよりも他者の魂の救いのために祈る方がより真剣に自分を忘れて祈ることができるとを感じました。また心からの切望は苦難の体験が必須だということも痛感しました。
シルバーバーチは真の祈りは霊的活動であると言っていますが、肉体ではなく魂の救いを求める祈りや神や霊界への切望は思念の威力を稼働させる力があるのです。
その思いに感応した霊的存在者たちの扶助を呼び寄せ、魂へ直接的に働きかけることができるのです。まさしく霊的活動なのだと思います。
今まで私は祈りが霊的活動であると意識できていなかったので、今回の体験から祈りに対する姿勢も明確になり、より真剣な気持ちで向き合うようになりました。
きっと真理に出会っていなければ肉体を治すことに目を向け、現状を悲観していたと思います。また死んでしまうことへの恐怖を感じ絶望していたと思います。霊的真理を知ったということは、この地上において力強く生き抜くための指南書を得たことであり最高に恵まれていることを感じています。
これからも神や霊界へと視野を広げ、その思いにふれることで世界中で苦しんでいる人々の魂の救いを願い、自分を役立ててほしいと神に真剣に祈りを捧げていきたいと思います。
シルバーバーチの言葉です。(*2)
「祈りとは魂の表現です。具体的に言えば、祈りとは光明あるいは導きを叫び求める魂の止むに止まれぬ切望です。その切望そのものが自動的に扶助を呼び寄せます。なぜならその思念の威力が稼働しはじめるからです。それが回答を呼び寄せる原因であり、回答が結果です。」 シルバーバーチの霊訓12
「誠心誠意の祈りは、その行為そのものがより高い波長と感応させます。祈るということ自体が心を開かせるのです。ただし、その祈りは心と魂と精神をこめたものであらねばなりません。こうして欲しい、ああして欲しいといった、ただの要求は祈りではありません。真実の意味での祈りは大へんな霊的活動です。それは何かの目的への手段であって、目的そのものであってはならないというのが一ばん適格な表現かと思います。」 シルバーバーチの霊訓12
絵本は全部で「コトとシンのうちゅういちたのしいおはなし」 「コトとシンの10のどうして?」 「コトとシンのうちゅういちたいせつなおはなし」 「コトとシンのうちゅういちすてきなおはなし」
「コトとシンのうちゅういちふじぎなおはなし の五部作です。
全ての作品に神の思い、霊界の思いが込められています。心が寂しくなった時、どうしていいか分からない時、絵本をめくれば優しさと安心感に包まれることと思います。たくさんの方に読んで欲しい絵本です。
絵本は英語版、中国版もあります。ご興味のある方はぜひ AinoShinKotoSha STORE(English・简体中文)のホームページへ足を運んでみてください。
また、読み聞かせ動画の「あいのしんこと舎チャンネル 」からは、コトとシンシリーズの全巻を見ることができます。心に響く語りと可愛い絵とバック音楽(オリジナル曲)が心を和ませてくれます。
(*2)「シルバーバーチの霊訓」は、スピリチュアリズム・ブックスから購入できます。