本日も鎌倉。
こんなお天気の良い日は鎌倉でも特に美しい竹林を持つ報国寺ね、と行ってみました。
苔も美しい季節です。
ふわふわな苔
宗派は臨済宗建長寺派
開山は仏乗禅師
開基は足利家時公
創建は1334年
本堂には釈迦牟尼佛がいらっしゃいます。
本堂右手に迦葉堂があります。
灯篭に足利の家紋、二つ引両が見えます。
屋根から生えるお花。
スマホで適当に撮ってもどこもバエるお寺です。
でも、やっぱり写真と実物は違うんだな。
後で見るとよっぽど写真が下手なのか、、とがっかりします。
こんなに美しい報国寺ですが、こちらも悲劇の舞台になったところです。
それが永享の乱。
鎌倉公方と関東管領・室町幕府の間の戦いです。
鎌倉公方とは、室町幕府が京都に置かれた際、関東10カ国を統治するため設置されました。室町幕府の将軍の代理である鎌倉府の長官です。
鎌倉公方は足利尊氏の四男の基氏の家が世襲していました。
関東管領というのは鎌倉公方の補佐役だそうです。こちらは代々上杉氏の世襲でした。
永享の乱が起きる時の鎌倉公方は足利持氏で、鎌倉管領をしていたのは上杉憲実でした。
室町幕府4代将軍足利義持。
息子である第5代将軍足利義量は17歳でなくなります。
その後しばらく将軍不在だったそうで、義持が代理で政務をとっていましたが、義持もいよいよ危なくなり、後継者を決めねばならなくなりますが、義持の跡取りは全て出家していたそうです。
ですので、当然、次の将軍は俺、足利公方である足利持氏だよねと思っていたようです。
しかし、義持は次の後継者を指名していなかったので、なんと、くじ引きで決めることになりました。
くじ引きといっても、石清水八幡宮で決められたそうですので、神様に決めてもらったのですね。
そして、後継者は義円が選ばれ、第6代将軍足利義教となりました。
足利持氏はこの結果に逆上。
勝手に息子を元服させたりやりたい放題で、将軍の怒りを買うことになりました。
関東管領の上杉憲実は持氏に将軍家の言うことを聞くよう進言しますが、かえって逆上され、持氏から討伐令が出されます。
憲実は将軍義教に直談判し、足利将軍から持氏追討令が出され、各地の大名が鎌倉に攻め入ります。
圧倒的に優勢な将軍家に持氏は将軍へ従属すると決断。鎌倉のお寺で出家します。
そして、憲実公に命乞いをします。なんだかね……
なんと憲実公は将軍に対して、持氏の助命嘆願をします。なんて優しく、立派な方のでしょう。
しかし、義教は却下します。
将軍は持氏の討伐令を出し、持氏は永安寺で自害、当時、報国寺にいた持氏の息子、義久にもまた討伐軍が下り、
仏前で焼香し、念仏を十回唱えた後、報国寺境内で自害したと伝えられています。
享年10歳とも14あるいは17とも言われております。
なんとも悲しいことがこの報国寺で……
これが報国寺が鎌倉公方終焉の地と言われる所以だそうです。
永享の乱後、鎌倉公方という役職は廃止、鎌倉府もなくなりました。
ところが、その後、鎌倉府が復活するのです。
鎌倉公方は持氏の生き残った息子、永寿王丸後の名、足利成氏がなり、補佐役の関東管領には上杉憲実の嫡男、上杉憲忠が就任したそうです。
なんと、なんとですね……
しかし、その後も戦が続きます…がこの辺で。
茶席 休耕庵
竹庭を眺めながら、お茶がいただけるのです。
お茶菓子は足利家の家紋、引き両紋と竹の干菓子です。
今は本当に良い季節。暑くもなく、陽の光もやんわりと差して美しい竹林を眺められます。
みやこわすれと撫子が可愛くいけてあったので、写真を撮らせてもらいました。
こんなのをですか?とお店の方が恐縮しておられました。
後ろの苔の青さを引き立てていますね。
そして竹庭を出ようと歩いていたら、パンッと音がしました。竹の皮が落ちてきたみたいです。
竹の皮があんな音がするとは思いませんでした。意外と重いのかしら。びっくりしたねーとちょうど写真を撮っていた方と笑い合いました〜
この方は腕章をしていたので、きっとお寺のカメラマンか鎌倉市の人なのかなと思います。
おまけ
報国寺をもう少し奥に行くと、華頂宮邸があります。
ここまで足を伸ばされる方はほとんどいないようです。
昔はもっと薔薇があったような気がするのですが、今日はほとんどありませんでした。
でも、咲いている薔薇は美しい!
今日も清々しい日を過ごさせていただきました。
ありがとうございます🙏