阪大の島岡まな教授(刑法学)のツイッターが炎上しているという。
今朝出張先の東京で5歩で渡れる横断歩道の信号が赤だが左右に1台も車なし。フランスなら「全員渡る」が、日本では20人以上の大人が青に変わるのを待っている光景に衝撃!私が渡ると一斉に冷たい視線。彼らに言っておく。
「信号は人間のためにあるのであって、人間が信号のためにあるのではない」! (2017年11月8日)
刑法学の教授が違法行為をしたということが問題だという事らしい。確かに、その行為自体は褒められたことではない。
しかし、島岡教授が問題にしたかったのは、「法律には無条件に従うべきか」ということであり、奥の深い問題である。
私自身、同じ光景を目撃したことが何度もある。最初に10人ほど赤信号で止まっていても、大阪では誰か一人渡り始めたら一斉に「ぞろぞろ」と渡り始める。そうした光景を見るたびに、「あー、日本人的だな」と思う。
かつてビートたけしは「赤信号、みんなで渡れば怖くない」といった。初めて聞いたときは、たくさんの人が渡っていれば、自動車のほうで止まってくれるから怖くないのだと思っていた。しかし、よく考えると「みんなが違法行為をしていたら、自分だけではないという安心感がある」という意味ではないかと最近思うようになった。
有名なエスニックジョークを思い出した。
豪華客船が沈没する際、船長が外国人の乗客に速やかに船から脱出して海に飛び込むように指示した。その際、ドイツ人には「飛び込むのがこの船の規則です」と言い、イタリア人には「飛び込むなあー」と言い、日本人には「みんな飛び込んでいます」と言ったというあの話である。
授業で、「法の支配」と「法治主義」の話をする。「法の支配とは理性で考えて正しい法だけを法とみなす考え方であり、法治主義とは制定手続きさえ正しければ、法の内容を問わないとする考え方である」と説明する。要するにちゃんとした手続きで成立した法律なら、ごちゃごちゃいわずに従えというのが法治主義である。
私自身は、「規則だから、いかなる場合も守れ」という意見にはくみしない。それでは「ユダヤ人は虐殺してもよい」という法律ができたら守らなければならないことになってしまう。
かつてアウシュビッツを訪れたとき、「NO PHOTO」と書いてあったが、どうしてもその写真を日本に持ち帰りたくて撮ってきたことがある。授業で生徒に見せてやりたかったからである。もちろんフラッシュはたいていないし、それによって、被写体に何か悪い影響は絶対に起きていない。もちろん授業以外には使ったことがない。それでも撮影してはいけなかったのだろうか?
もしおかしなルールがあれば積極的に破り、ルールを改正させるように持っていくことも重要ではないか。かつて外国籍の人に対して指紋を強制できるという法律があったが、外国籍であるからといって犯罪者のように指紋をとるのはおかしいという「違反者」が出たことから、その法律はなくなった。
ルールは一体何のためにあるのか。ルールが作られたその精神こそが大切なのではないか。ただし、私自身、判断力が十分ではない小さな子どもが赤信号で待っている場面では、絶対に信号無視はしない。教員としてのせめてもの矜持である。
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