南英世の 「くろねこ日記」

考えるということ

最近はインターネットで検索すれば大抵のことは答えが出てくる。しかし、そのことがかえって考えない人間を生み出している。

以前、定期考査で「大阪環状線は1周何キロメートルあるか推計せよ」という問題を出したことがある。ネットで調べる前に自分の頭で考えてほしかったからである。採点にあたっては推計するための考え方も重視した。

世の中にはネットで検索しても分からないことがたくさんある。本来、考えるということは答えのないことを考えることではないのか。大学入試の共通テストは「考えることを重視している」というが、すでに準備されている答えを見つけ出すことが本当に考えることだといえるのか? 考えるベクトルの方向が違うのではないか。

たとえば、

(問題)

 幅5メートルほどの狭い道路に横断歩道の信号がある。周りを見れば車は全く来る気配がない。しかし、信号は赤である。車が全く来ない状態でも渡ってはいけないか?

さあ、この問題にどう答える。赤信号だから守るべきだと考えるか、車が来ていなければ渡ってもいいと考えるか、それともみんなが渡っていれば信号無視をしてもいいと考えるか。

実はこの問題は国民性が問われる問題でもある。ドイツ人なら「規則は守るべきだ」と答えるかもしれない。フランス人なら「規則は人間の安全を確保するためにあるのであって、危険がないなら渡ることも当然許される」と答えるかもしれない。では、日本人なら・・・

たぶん、「みんなが渡っていれば自分も渡る」と答えるのであろう。まさしく「思考停止」である。その点でいえばドイツ流の「規則だから守る」というのも思考停止といってよい。もし、「規則あるいは上司の命令だからそれに従う」ということに疑問を持つ人が多ければ、ユダヤ人の虐殺は起こらなかったかもしれない。

ケンブリッジ大学の法学部の試験で「あなたは自分を利口だと思いますか?」という問題が出されたことがある。本当に考ええる人間を育てたいなら、日本も答えのない問題を自由に議論させる教育にもっと力を注ぐべきである。

大学入試では「憲法9条をめぐる政府解釈を、次の中から正しいものを選べ」などというクソ問題が相変わらず出ている。そんなものを「覚えて」一体何になるのか。

岸田首相が建設国債を発行してそれで軍艦を作るというホラーなことを言い出した。国債の60年償還ルールを見直すとも言い出した。新型コロナの分類を2類から5類に移行させるとも言いだした。この時期に何のためにそんなことを言い出したのだろう?  私には「富国」なしの「強兵」政策のように見えるのだが杞憂だろうか。

何が正しいのか。どうすれば多くの人が幸せに暮らせる社会を実現できるのか。答のないいろんなことを考えることが「本当に考える」ことではないのか。授業では、答えのない問題をどんどんぶつけて生徒に発言させるように仕向けている。しかし、多くの生徒は沈黙して一向に発言しようとしない。

発言したことが間違っていてもいい。自分で考えてみることが重要なのである。だから、発言した生徒にはその積極性を評価し成績にどしどし加点している。いつの日かサンデル教授の「白熱教室」のような授業にしたいのだが。

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