SINGULA(映画)
その2〜兎に角褒めたい、兎に角刺さった編〜
先の感想でも少し触れたけれど、最後のシーンの秀逸さ! あの人間臭い仕草を見て、今までのAI達の人間っぽくみえる喋り方や仕草があくまでインストールされたものでしかなかったと痛感する作りが凄い。 画面越し“ネットの向こうの人間“と、目の前にいる“生の人間“の差とでも言うか。 今まで、それぞれの『色』は見えていたし、AIなのにとても“人間っぽい“と思っていたが、最後のシーンで生の『体温』を突き付けられる。何それ、痺れるほどカッコイイんですけど!!推しがカッコイイとか言う当たり前のことはさておき(置いとくのか?めちゃくちゃセクシーで最高やぞ???でも悲鳴を飲み込んで一旦置いておく)。 生の演劇の何が好きって劇場の空気を振るわせる『体温』を感じる瞬間、ってのがあると思ってるのです。まさか、それを、映画で感じる日が来るとは思わなかった。(演劇と違って、映画には映画の距離感でそっと寄り添ってくれる良さがあると思っている)いや、すご過ぎない?演劇人と映画人で本気のタッグを組むとこんなことになるのか…。堤監督もストレートの舞台での演出をすることはあるけれど。そういえば堤監督の作る舞台(2本しか見たことはないけど)って、舞台美術とか装置がとてもシンプルだったので、そういう意味では今回のSINGULAの堤監督っぽさはそこにあったのかもしれない。引き算で演者を際立たせる演出のような気がするので、演者の力量が非常に問われる演出だなと思った記憶がある。カメラのフォーカスの代わりに、画面構成上のシンプルさと、演者の力で引っ張る演出。 それはさておき。その最後のシーンを経て、頭をよぎる今までの数々のシーン。①BRAINが居るシーンでの言葉の応酬での言葉の意味が変わってくる台詞が結構あるなとか。振り返って思えば、他のAIよりも人間臭い仕草が①BRAINにはあったなとか。 そして、①BRAINはAIなのか先生なのか、ということについては“両方“と言えるなと。AIが15の意見を集めて集約し1つの結論を出すとして①BRAINの意見は“先生“の意見なので、AIの一部分であり先生でもある。 考えれば考えるほどこの最後のシーンの瞬間に全てが集約されていた。色んな意味で。 一度全てのAIが停止する描写もドッキとさせられるけれど、その後①が起き上がった事で、ディベートが帰結し一つに纏まった事を表していたし、15で一つのAIである事も表していたし、A Iが先生の意見も込みで集約していた事も表していた。 そしてこれは後から気づいた事なんだけれど、先生は敢えて人類存続反対派に属していたのではと。自分の意見も込みでAIに集約させて、開発者に有利な結論(開発者側の結論)が出なかった事に最後の最後、確認してホッとしていたのではないかな、と。自分が開発したAI の公平性を確認しホッとしていた可能性があるのかなと。 不特定多数の人間の意見を集約したものでありつつも、誰か特定の個人の意図に操られたAIでは意味がない。そこに、先生の“人間“に対する信用してなさというか絶望感というか(もしかしたら己のことさえも)が伺える気がしてならない。
SINNGULA という映画が最後のシーンに色々全て詰まっていて、冒頭に戻ってもう一度観たくなる映画だった。
あとこれ!spiさんの一人15役。当たり前に凄いことです。役づくりで15体それぞれに明確にイメージする実在の人物(映画のキャラクター等)を作ったという役づくりに感服。映画の設定に合わせて、そのように作り込んだということなのだろうと推察されるけれど、やろうと思ってできることじゃない。そもそも一人で15役やろうという時点で凄すぎるのに、更にそうきたか!って感じ。「誰か」を丸ごとインストールしたAIの役づくりの為に、自分も15体分の「誰か」をインストールしたってことよね。凄すぎる…。 原案脚本、監督、演者、それぞれの総力で成り立っている。この映画ほんとにすごい。